ティッシュになりたくない熊さん
「清塚さん、私はね、自分の事を商品だとは思っていませんでしたよ」
と熊さんは言って僕が出してあげた温かい日本茶をすすった。
「そりゃあね、サーカスの熊なんてショーの中で動いている以上、どっかに商品としての価値 みたいなものがあるっていうのは分かります。
お客がいてそれを喜ばせなくてはいけない以上、そこにはどうしたって『サービス』みたい なのが発生するわけだし、その『サービス』が出来ない熊なら私はサーカス団に入って
『選ばれた熊』のようにはなれなかったでしょう」
「だから、自分で選んだ道と言われればそうなんですが、それでも私は自分の事を商品だなん て思ったことは1度もなかったのです」
肩を落としため息をつく熊さんを見ていて僕はとても気の毒に思った。
「僕も熊さんの事を商品だなんて思っていませんよ。
中にはそうやって思う人もいるかもしれませんが、少なくとも僕は思ってない。
世の中には僕以外にも熊さんの事を商品だなんて思ってない人が沢山いると思いますよ。
だから、そんなに気を落とさないで…」
とありきたりな慰めをしたのを熊さんは無視して話の続きをした。
「商品ていうのはね、薬屋さんの店頭に並んでいるティッシュペーパーみたいなのを言うんで
すよ。
清塚さん、清塚さんはティッシュペーパーと私達サーカスの熊さんの違いが解りますか?」
僕は少し考えた後で答えた。
「ビジネスの上ではティッシュも熊さんも同じ商品かもしれないけど、
ティッシュは人に作られた物で店頭にも人の手によって並べられている物で、
熊さんは自らの意志に基づいて商品となっている」
熊さんの逆鱗に触れるのが怖かったので少し恐る恐るしゃべった感じになった。
「その通り。
ティッシュは強制的に売られているんです。
でも、私達は私達の意志の基に誇りを持って売られようとしているのです」
熊さんはのどが渇いたのか、もう一度日本茶をすすった。
さっきと違っていささか乱暴にコップを傾けたので、ちょっとお茶がこぼれてしまった。
熊さんがお茶の入っているコップをテーブルに戻すと、熊さんの口元は少し濡れていた。
僕は熊さんにティッシュを一枚渡して口を拭くように言った。
「ありがとうございます。
ティッシュも役にたつものですね。
私達なんかよりずっと役にたつ」
随分悲観的になってしまっている熊さんだと僕は思った。
「熊さんとティッシュじゃ役割が違うから、比べる必要はないと思いますよ」
今度の僕の言葉は落ち着いてしゃべれた気がした。
「清塚さん、あなたは本当に一般的な意見をいいますね。
悔しいくらい一般論ばかり言う。
一般論は時に鋭利な刃物のように心を突き刺しますよ。
一般論というのはまともな人の証であり、武器でもあります。
その意味がわかりますか?」
「あぁ、とてもよく分かる。
僕もよくその一般論の剣に突き刺されるからね。
でも、熊さんが求めているのは一般論じゃないのかい?
僕のとても個人的な意見を聞きにここにやってきたのかい?」
熊さんは少し考えてから、いえ、あなたの仰るとおりだ、と言った。
「個人的な意見のキャッチボールなら、サーカスの中で働いている他の動物達と話せば良いの です。
だから、今日は一般論で話して頂きたいと思います」
「うん、わかってるよ」
「ところで、どこまで話しましたか?」
「確かね、自分は同じ商品でも、薬屋に並んでいるようなティッシュとは違って、
自らの意志に基づいて商品化しているんだと言うところだね」
熊さんはそうそうといった様に首を縦に二度振った。
「でもね、最近はその意見に確証が得られなくなってきたのです」
「昔、若い頃はね、サーカス団に入り立ての頃です、その頃はね良かったんですよ。
ただ自分のやっている事に誇りを持って突き進む事が出来た。
でも、段々と仕事にも慣れてきて、人を喜ばすと言う事の専門家として一人前になればなる
ほど、僕はただの商品なんじゃないかと思うようになってきたのです」
僕はゆっくりと頷いた。
「このテッィシュと同じ様な一商品じゃないかって、思うようになったのです」
と言って熊さんはさっき自らの口元を拭いたティッシュを丸めてゴミ箱に向かって投げた。
ティッシュはゴミ箱には入らず、ゴミ箱の外側に当たってそのまま落ちた。
僕は何も言えなかったので、熊さんの話の続きを待った。
「本当はティッシュにも意志があって、自分では作られたなんて思っていなくて、
売られているのも自らの意志だと思い込んでいる。
つまり、私達熊さんと全く同じなんじゃないかって思ったんです」
「それからというもの、全てが馬鹿馬鹿しく思える瞬間が発作的に来るのです。
サーカスで働く事だけでなく、こうして誰かと話している事、ご飯を食べる事、眠る事、
全てが下らなく感じてしまうようになったのです」
僕は相変わらず一言も言わなかった。
「ねえ、清塚さん、私は私の話をしすぎてますよね。
傲慢な熊さんだとお思いでしょう?
そんな事分かっているのです。
さっきゴミ箱に向けて丸めたティッシュを投げ込んだのも失礼な事ですよね?
分かっています。でも、そんな社会の暗黙のルールみたいなものを守る事すら…」
「下らないって言うんだろう?」
僕は思いきって熊さんの話を遮ってみた。
「ええ、そうです」
「熊さん、熊さんの気持ちは僕はとても良く理解出来ているつもりだ。
でも、社会の人間は多かれ少なかれそういう事を抱えて生きているんだよ。
達観するのは簡単だ。達観したら負けだ。って僕の親友は教えてくれた事がある。
ばかばかしいものをバカにしたら同じ馬鹿同志になってしまうんだ。
時に本当に馬鹿な人はその事を盾にしてまともな人、そう熊さんのような人に攻撃してくる
事がある。
でも、それに負けちゃいけない。
僕は熊さんのサーカスでの演技にとても感銘したし、涙さえ浮かべた。
それだけでいいじゃないか?」
「それで満足出来ないなら、それは表現者としての熊さんのただのおごりだよ。
僕ら表現者はいつの時も、人を感動させる事が出来て成立する生き物なんだ。
そこがティッシュとは違う。
熊さんが本当に自分をティッシュだと思いたくないのであれば、
1人でも多くの人を感動させたいという純粋な気持ちを思い出す事だよ」
熊さんは僕が喋っている間中、ぴくりとも動かなかった。
「はい。清塚さんに話して良かった。分かってはいたけれど、人から言って貰うのって自分で
思い込んでいるのとは全然効果が違いますね」
「一つだけ訊いてもいいですか?」
もちろんだと僕は答えた。
「さっき同じ『表現者』だと清塚さんは言っていたけれど、
清塚さんもサーカスの人なのですか?」
「いや違うよ。
僕はピアニストだ。
音を紡ぎ、そして誰かに評価して貰う事が仕事さ。
自らの意志でね」
「そうでしたか。
なるほど。
私達の事が理解できるのも当然ですね。
同じ表現者だ」
暫く沈黙が続いた。
僕は目のやり場に困ったので、ゴミ箱の方を見た。
ゴミ箱と丸められたティッシュがあった。
その二つは宿命的に結びつけられているように見えた。
「僕らもティッシュみたいな表現者になってしまったら、すぐに丸められてゴミ箱行きだね」
熊さんは初めて声を上げて笑った。
「その通りですね。
いよいよ、私も初心に戻って頑張らなければ。
さて、そろそろ行きます。
これからサーカス団の朝礼があるのです。
長々と話してしまってすみませんでした。
日本茶も、ありがとうございます。
とても美味しいと言えるものではございませんでしたが、温もりを感じました」
「なぁ、一つだけ訊いて良いかい?」
どうぞと熊さんは言った。
「自分の名前を書いて飛ばすと自分がスッとこの世からいなくなれる紙飛行機があったら、
いる?」
熊さんは鼻で笑いながら僕の問いに即答した。
「要りませんよ。
何事にもルールというものがある。
私達熊さんの世界にだってルールはある。
野生の熊さんにだってルールはある。
人間達が民主主義や共産主義などと言ってルールを決めているのと同じようにね。
そして、私の中のルールは、
自らの意志によって決められる事は、必ず向上することに限る
という事です。
つまり、ネガティブになるために自分の意志を使わない事です。
いつも意志によって決定される事は、先へと進むこと。
迷うとすれば、進み方を迷うのです。進むかどうかを迷うのではないのです」
「私達生き物には死というゴールがあって、宿命的に老化というものがついてまわります。
つまり、生きている限り何かが衰えていく一方なのです。
最後は肉が削がれ、このフサフサの毛もまん丸の目もなくなります。
不自然なほど真っ白な骨をさらけ出して、二度と動けないものになります。
遅かれ早かれそうなるのです。
後は、それをどう遅らせられるかが問題です」
熊さんは帰りの身支度をしながら喋っていた。
緑色のカエルのような色をした鞄を肩から下げた。
「もしくは、遅らせる必要もないかもしれない。
限られた時間を、どれだけ美しく生きられるかどうか、ですね。
だから、ルールは自らの意志では生を止めない事ともいえるかもしれません」
熊さんが帰った後で僕は熊さんと写真を撮っておけばよかったと思った。
限られた人生で確かに残るものなんてそれほど多くはないのだ。
僕も、ティッシュのような表現者にはなりたくない。
だから、少しだけ頑張ってみようと、そう思った。
あの、紙飛行機をくれたおじさんは、僕に何を伝えたかったのだろうか。
それをこれからじっくり考えたい。
でも、もう、紙飛行機は必要ない。
僕は、終わらない夜がないという事を、知っているからだ。
僕は、まだ眩しくない朝日に向かって、
「熊さんがんばれ!」
と叫んでみたのだった。







