清塚信也 OFFICIAL BLOG: DIARY

DIARY

2008.10.16

サラリーマン

僕は20時12分東京発の最終電車に乗り込んだ。
考えてみればこの時間から東京駅発の新幹線に乗るのは初めてだ。
しかも上越新幹線。
北だ。
北に行く新幹線は寂しく感じる。
それに付け加えて最終電車という事が、より一層僕の寂しさを強いものにした。
でも、感傷的な気持ちは疲れているときには良い。
慰められたような気持ちになる。
僕がギリギリに乗車したため、新幹線はすぐに動き出した。
僕の乗っている車輌には殆ど人がいない。
ちらほらと人影が見えるが、そのどれもが本当に「影」かのように存在感のないものだ。
僕は静かに動き出した新幹線の車内で、まどろみのような感傷に浸っていくばかりだった。

新幹線は1時間と少しかけて越後湯沢に止まった。
僕はそこから直江津という駅まで行く。
越後湯沢での乗り換えは、僕の感傷的な気持ちを益々促進させた。
ひとつはその空気の良さ。
もうひとつはホームのローカルな感じだった。
空気の良さはただの新鮮さではなく、冬の温泉地の夜特有の冷たい空気だった。
乗り換えの列車は10分程度の待ち時間だというのに、ホームにはまだその姿が見られない。
この季節の越後湯沢がこれ程寒いとは知らなかった。
もう、冬の頭角を現している。

「……分発の金沢行き最終電車は点検のため5分ほど遅延致します」
アナウンスが駅構内に響き渡った。
誰もいない学校の校舎に響き渡るチャイムのようだった。
そのアナウンスの声がまた「おやすみ」とそっと告げる父親のようなトーンだった。

「まだ良い方です」
後ろから男性の声がした。
僕はその男性を見る前から、
何故かこの男性が典型的なサラリーマン風の格好をしていて、
黒縁眼鏡をしていることまでが分かった。
「これで2月ともなると真っ白な雪化粧です。そうなるともっと寂しいですよ」
僕は首だけを後ろに向けてサラリーマンの話を聞いていた。
「いやぁ、お若いのにお一人で越後湯沢からの最終に乗るなんて、面白いお方だ」
僕はゆがんだ笑顔をわざと作って鼻でふんと音をたてた。

列車がやっとホームに滑り込んでくる。
僕は切符を見て座席を確認する。
1号車、3番、C席。
席を見つけて荷物を上の棚に上げて座ると、通路を挟んで隣の席にさっきのサラリーマンが座っていた。
サラリーマンはこっちを向いて僕を直視している。
にこやかな笑顔を見せ、黒縁眼鏡の奥の瞼は穏やかな曲線を描いていた。
「わたしはね、今日で死ぬんです」
サラリーマンは確かに、そう言った。

つづく

2008.10.09

天国はまだ遠く

答えはピアノだった。

波の音、風が僕に勢いよく当たって過ぎ行く音。
まるで風が僕に悪戯をしながらじゃれているようだ。
風は僕と交じり合いながら、
指の間、髪の毛の間、腕の中、両足の間をぐるぐると巻き込みながら抜けていった。
砂浜にピアノ。
水平線を区切るようにピアノ。
遠くから見ると、グランドピアノは砂浜にあってはならないもののように浮いて見えた。
しかし、数分もすると砂と風はすぐにピアノを体の一部として迎え入れた。
ピアノの足下に砂が溜まってくる。
僕はピアノに近づき、恐る恐る音を鳴らしてみた。
響きはない。
微かに耳元に届く音は、まるで独りぼっちだった。
音はピアノから発音され、すぐに風と共に消えた。
座っているだけで髪が全て同じ方向になびく程の風力。
隣の人の話している声も聞こえないくらい風の音は轟音だった。
僕の奏でるピアノの音は失われていた。
僕には届かなかった。
それは、風のせいなのだろうか?

僕はずっと人生という迷路をさ迷っていた。
美しい音とは何か?格好いいリズムとは何か?心地よいテンポとは何か?
素敵な音楽とは何か?ピアニストとは誰か?僕は誰なのか?人生とは何なのか?
僕の中にあるクエスチョンは行き先の多すぎる別れ道のようだった。
そのどれもを手に入れたくて、僕は立ち往生していた。
道が多すぎて、一つを選ぶ事なんて出来なかった。
だから、別れ道の基の部分でずっと立ちつくしていた。
時間は進む。僕の人生は過ぎ去って行く。
ただ立ちつくしているだけで、時間は刻一刻と死に向かっている。
でも、相変わらず道が選べない。
時間を経過させたせいで、逆にもっと選択するプレッシャーを感じるようになってしまった。
もう随分長くこうして人生を迷っている。
こんな風にずっと迷っていると、いつしか音が聞こえなくなった。
僕の耳から音が消え失せた。
暗い自分の部屋でただ独り、僕は大切に大切に鍵盤を人差し指で鳴らしてみる。
だめだった。
感触だけが淡い春の思い出のように微かに心に残り、音だけが僕の透明な体を通り抜けてしまう。
小学生に戻りたかった。
あの頃は自分が誰か分かっていた。
自分が何故ピアノに向かっているか、分かっていた。
音は、僕の心をいつも暖かく抱きしめてくれたし、ピアノはいつでも僕の事を待っていてくれた。
今、僕は独りぼっちだ。
そして、ピアノも独りぼっちだ。
二つの運命はどこかで生き別れてしまった。
複雑すぎる迷路の中で別れた僕たちは、もう二度と出会えないように思えた。

僕は廃人のように東京をさ迷った。
流れる景色を横目に、僕は僕の事を呪った。
タクシーからは東京タワーが見えている。
僕にはその燃えるような東京タワーが心臓にみえた。
僕は生き物の体内にいて、今心臓部を見ている。
人生という獣に飲み込まれて、もう出てこられない迷路をさ迷う運命だ。
夜の東京は多くの人生が交差していた。
本当に色んな人がいた。
人の形をした音楽のようだった。
針でつつくと風船のように割れて、中から七色の音色が出てくるような気がした。
人は美しかった。
でも、切ないようにも見えた。
気がつくと僕は恵比寿駅の前にいた。
どこにあてもなく、僕はひっそりと歩いた。
人の流れとは逆に歩いた。
少し歩くとアートカフェにたどり着いた。
何年も前によく来た。
あの頃はまだ音が満ち溢れていた。
でも、アートカフェの主人は僕の音楽を認めていないようだった。
白髪で風格のあるその男主人は穏やかな顔で何一つ僕のピアノの感想を言わなかった。
きっと、僕が若かったのだろう。
僕の若々しい音楽を認めなかったのではなく、見守ってくれたのだと思う。
今思うと、そう思える。
「確か木目のスタンウェイがあったな」僕は呟いて階段を下りていった。
アートカフェはライブを終えたばかりで、人々の気配だけ残して殆ど誰も客がいなかった。
丁度良いときに来た。
僕は独りでビールを飲んだ。
あの時僕を見守ってくれた店主は相変わらずの穏やかな表情で僕を迎えてくれた。
もう何年も来ていないのに、ずっと通っている常連のように当たり前に自然に僕を店に迎え入れてくれた。
懐かしい。
僕の時間はここで止まっていたように思える。
でも、もう一人の僕は確かにここから離れて生きて来た気もする。
そして僕は気付いた。
時間は過ぎている。
口に出してずっと言い聞かせてきた事だけれど、初めて実感する事が出来た。
そう、時間は、確かに、非常に、過ぎている。
近づいては遠く離れ、近づいては遠く離れ、僕の隣を通り過ぎている。
「ピアノ、弾いてみたらどうだ」
店主が僕に言った。
僕は静かにピアノに近寄り、音を鳴らしてみた。
大切に、壊れてしまわないように、秘密に、そっと鳴らしてみた。
音は、聞こえなかった。
僕ははにかんだ表情を浮かべて「良いピアノですね」と店主に告げた。
「星に願いを」をジャズ風にして弾いてみた。
いつしか僕以外の客も増えていた。
アートカフェからは拍手が起きた。
でも、僕には音がない。
外では雨が降り始めていた。
無情にも、僕にはその雨の音だけが耳に残った。

楽譜を見て音を鳴らせる。
僕には実際に鍵盤を叩かなくても音が鳴らせるという特技がある。
その楽譜の音は、悲しみと孤独に満ちあふれていた。
テンポとリズムというメロディを束縛する呪いから解かれずに、孤独な鳴き声をあげているかのような音だった。
僕は何故かイタリアに行って金縛りにあった時の事を思いだした。
体の自由を奪われ、声にならない声を叫ぶ。
その楽譜の音は僕の今の心境にそっくりだった。
まるで音を失ったピアニストの人生を曲にしたかのようだった。
レコーディングスタジオ、オーケストラ、マイクが森林のように立っている。
この曲をサウンドトラックとして迎え入れる映画「天国はまだ遠く」の長澤雅彦監督と
この曲の作曲者渡辺俊幸さんが演奏を見守る。
テレビ局が僕の密着取材に訪れている。
スタジオは賑やかだった。
また、多くの人生が交差した。
人という音楽がハーモニーを響かせていた。
また、僕一人だけがそこに入れていないような錯覚に陥った。
音楽は、虹色のハーモニーや孤独な響きや孤高な切なさを響かせているようだった。
僕にはピアノの音が聞こえなかった。
悔しかった。
涙が出そうなくらい、悔しかった。
どうして聞こえないのだろう。
僕は全ての気持ちをそこにぶつけた。
出ているはずの音を必死になって聴いてみた。
「お願いだ。僕に音を届けて下さい」
心の中でそう祈り続けた。
戻れ。戻れ。僕の音よ、戻れ。
顔が真っ赤になるくらい息を止めて音に聞き入った。

少しだけ、少しだけ、いま、ほら、微かにピアノの孤独な音色が聞こえた。

音が戻ったのはたったその一瞬だった。
それでも、僕は懐かしい旧友に会えて、とても嬉しかった。
幸せだった。何よりも、幸せだった。
弾き終わって肩で息をするほど疲れていた。
その夜、全てのレコーディングを終えて帰宅する頃、僕は38度の熱を出していた。
頭が朦朧とする。
僕の中を音楽が駆けめぐる。
さっき録音していた音が再び頭を流れる。
クラシックのショパンやベートーヴェンと交差して不協和音になる。
意識が遠のく。
そんな風に意識の世界をさ迷っていると、いつしか僕はモスクワ留学時代に戻っていた。
僕は歩いていた。
吹雪でマイナス30度の中、ただ歩いていた。
もう1時間半も歩いている。
朦朧とする頭。
この場で座り込んでじっと死を迎えたいような穏やかな気分だった。
孤独で、寂しくて、僕にはもう何もなかった。
あの頃僕は全てを失ったような気分だった。
人間関係がうまく行かず、自分をうまく表現出来なくて、友達も恋人も失った。
ピアノも僕のもとを去った。
逃げるようにモスクワに来た僕は、ただ一人吹雪を彷徨っていた。
本当に、このまま死ぬのかと思った。
防寒具も殆どちゃんと着けていなかった。
40度の熱を出しながら、僕は歩いた。
そして、家まで帰った。
部屋に着くと、僕は真っ先にピアノに向かった。
「おい、お前はどうして僕のもとを去った?」
和音を一つ鳴らす。
「僕はこんなに君を愛しているのに」
違う和音を鳴らす。
段々激しく鳴らす。
最後には肘や腕全体を使って鍵盤に覆い被さる。
悲惨な音がした。
ピアノの悲鳴だ。
僕は泣き続けた。
朦朧とする頭を支えながら、おいおいと泣き続け、ピアノに謝った。
「ごめんよ、ごめん。僕が悪いんだ。ほんとに、ごめんよ…」
僕はうな垂れた。
そして、ペダルを踏み、人差し指で優しく鍵盤を舐めるように触ってみた。
今度は、暖かい音がした。
音は線となって僕の体に入り込み、緑色の光に変化して僕の心を落ち着かせた。
暖かかった。
幸せだった。
そして、僕は意識を失った。

映画「天国はまだ遠く」のエンディングテーマ「こと」を歌う熊木杏里さんと音楽を作った。
熊木さんの「こと」は、純粋で、素直で、率直で、優しくて、不器用な感じがした。
人より考える事が多いから、自分の容量より湧き出てくる気持ちの方が大きいから、
それをアウトプットするのに時間がかかってしまうような、素敵な人を表現している歌声だった。
僕はピアニストとして、ソリストとして、伴奏に徹するのはプライドが許さなかった。
でも、この曲とこの歌を聴いて、初めて自分がただの歯車になりたいと強く思った。
熊木さんは僕を「大人っぽい」と言った。
でも、僕はその逆だと思った。
音を失うような僕に、大人は似合わない。
僕は何も解っていない。
何も出来ていない。
僕はこの「こと」という曲において、強い悲しみを得た。
そして、傷から自由になれることも知った。
悲しみは悲しみで止めてはいけない。
そこから解放される事はないかもしれないが、自由になることは出来る。
熊木さんの歌声は、僕の遠い記憶から、音楽の国に帰れるパスポートを届けてくれた。
何も気張らず、何も気負わず、ただ純粋に音楽が好きなんだと思ってピアノを弾く事を思い出させてくれた。

僕は何をしていたのだろう。

ここまで、何の旅をしてきたのだろう。
ただ走って走って、走ってここまで来たら、何のために走ったか分からなくなっていた。
でも、今まで走り続けていたから、もう走りを止める訳にもいかず、
ただぜえぜえと息を上がらせながら今も走り続けている。
何を求めて走っていたのか、何が僕を走らせていたのか。
僕は何をやっていたのだろう。
道の後ろを振り返ってみる。
もう、戻れないかな。
もう、走りすぎたかな。
この道を戻れば、僕の落としてきた宝物はどこかに今も落ちているのだろうか。
それとも、後からきた車だか人だかによってぐちゃぐちゃに踏まれているかな。
僕は立ち止まった。
後ろを振り返り、前をもう一度見てみる。
道は無数に別れている。
僕は道を選びもせず、ただ走り続けていただけなんだ。
だから、真っ直ぐ進んでいなかったのかもしれない。
右に右に、左に左に進んでいただけで、僕はずっと同じ所を回っていたのかもしれない。
馬鹿だよな。
本当に。
「馬鹿だよ。本当に」
いつの間にか、誰かが横に立っている。
右を向く。
左を向く。
誰もいない。
いや、左に誰かいた気が…。下だった。
背の小さい子供が僕の左側に立って僕を見上げながら離していた。
「馬鹿だよ。本当に」と言ったその子は、小学生の頃の僕だった。
その子は優しく微笑んでいた。
「真っ直ぐ走ってると思って、必死に走り続けてきたのに、ただ回ってただけなんてさ、ほんと、馬鹿だよなぁ」
「こんな大人になるのか僕は」
子供の頃の僕は残念そうに言った。
「でもね」と子供の頃の僕は言った。「まだ遅くないよ」
そう告げて子供の頃の僕は地面を指指して去っていった。
僕はハッとして足下を見た。
僕は何かを踏んでいた。
それは木で出来た古い汚い箱だった。
洞窟に眠っている宝箱のように見えた。
僕はそのたがを外し、中を恐る恐る見てみた。

オルゴールだった。

オルゴールはねじが巻かれておらず、音が出なくなっていた。
僕はねじを巻いた。
でも、硬くてねじは微動だにしなかった。
僕は頑張ってねじを巻こうと努力した。
手から血が出てきた。
爪が少し欠けた。
痛みが僕を滅入らせたが、僕は引き続き力を入れた。
すると、やっとかたかたと音をたててねじは巻かれ始めた。
一度巻かれ始めると、もう後は殆ど力を要さなかった。
完全に巻ききると、オルゴールは止まっていた流れの続きを奏で始めた。
「天国はまだ遠く」で録音した曲とエンディングテーマの「こと」が流れた。
オルゴールなのに、音はそのままの音だった。
サウンドトラックを聴いているかのようだった。
熊木さんの「こと」ではちゃんと熊木さんの歌声が聞こえた。
僕のピアノも、聞こえた。
ピアノはちゃんと鳴っていた。
渡辺俊幸さんの曲では孤独な美しい響きを奏でていた。
熊木杏里さんとの曲では彼女自身が作ったメロディを邪魔しないように、静かに見守っている音がした。
「あぁ、僕は本当に馬鹿だ」
音はいつも僕の隣にいたんだ。
僕が気付いてあげられなかっただけで、僕の足下にあったんだ。
走りすぎたなんて僕のおごりだった。
僕が走っていたのはずっと同じ場所だったんだ。
何も変わらない。
昔の僕と、何も変わらない。
僕はずっとここにいたし、これからもここにいる。
音が僕と共にいてくれる限り、僕は自分を見失わないでいられるんだ。
もう、戻れないのかと思った。
音が僕の体内を満たしていたあの頃に、もう戻れないのかと思っていた。
でも、大きな間違いだった。
音楽は、いつでも人の体内で愛を奏でてくれている。
人は、人の形をした、音楽なんだ。

答えは、ピアノだった。

それ以外の何者でもなかった。
僕の体はピアノと繋がっていて、いつでも音が鳴らせる。
あのオルゴールは、ピアノだったのだろう。
僕は音を探して、ピアノを弾く事を疎かにしていた。
そうだ、僕にはピアノがある。
それが、答えだ。
その向こう側には何もない。
そこが、もう、答えだった。
僕はずっとピアノの向こう側を見ていたんだ。
ごめんよ。僕が間違えていた。君の大切さを見失っていた。
熊木さんの「こと」のPVを海で撮影した。
「天国はまだ遠く」の長澤さんが監督としてリードしてくれた。
僕はピアノを鳴らしてみる。
音はしない。
でも、もう何も怖くない。
僕の前にはピアノがある。
これが答えだ。
僕は焦らず、聞こえない音に聞き入った。
「こと」の前奏を弾く。
熊木さんの歌が入ってくる。
彼女は悪戯に砂浜に出てきた海の妖精のようだった。
僕はその歌声を支えられて幸せだと思う。
この曲、この映画に囲まれて、幸せだと強く思う。
もう、何も要らない。
なにもいらない。
僕は優しく撫でるように鍵盤に指を滑らせる。
彼女は僕に後ろ姿を向けて、海に向かって歌い続けている。
僕は目を瞑り、じっと風の中に消えていく歌声を聞く。
風が歌っているようだった。
空気が僕たちを音楽と共に包んでいるようだった。
戯れているようだった。
こうして僕たちは「こと」を、歌い、奏で終えた。
僕は笑いながら熊木さんに何かを言おうとした。
「楽しかった」だとか「幸せだった」だとか、そんな陳腐な事を言おうとした。
熊木さんは後ろ姿を引き続き僕に見せている。
歌い終えたのに、彼女は何も反応しない。
僕は怖かった。不安だった。
彼女にとっては当たり前のPV撮影で、当たり前の仕事なのかと思った。
もしその温度差があるとしたら、僕はまた音を失ってしまうような気がした。
やっと僕の答えが出たというのに。
彼女は風と同じ方向に少し傾いた。
その表情は穏やかだった。
髪が風の象徴のように空中で浮遊して、彼女はひっそりと波との会話を楽しんでいるようだった。
一瞬、彼女の瞳から涙がこぼれたような気がした。
すっとそれを指先でぬぐってしまったが、それは宝石のような輝きだった。
僕は何も言えなかった。
ただ、その音楽的な光景を、じっと見つめている事しか出来なかった。

人は、やっぱり音楽だった。
生きながらにして、音を奏でている。

僕は恐る恐る人差し指だけで鍵盤に触れてみた。
あと数センチ動かせば音が鳴る。
体が震えた。
僕の人生がここに集まっている気がした。
今までの事を思いだしてみた。
僕が当たり前のようにピアノを弾いていた少年時代から、留学に行った事まで。
いま、僕はピアノを弾く。
いま、再び僕に音が届く。
大切な物は、大切だと思わなくては大切な物ではない。
本当に大切だと思うという事は、好きで好きで、愛しくて、涙が出るほどかけがえのない事だ。
僕の体内で悲しみや切なさにも似たエネルギーが爆発しそうになる。
この一音に、全てをかける。
そうやってここまで歩いてきたんだ。
そうだった。
僕は、この、ピアノという楽器が、大好きだ。

波を打てない湖に、白鳥が一羽やってきた。
白鳥は湖の真ん中に降り立ち、水に波紋を起こした。
止まっていた時間が再び動き始める。
凍っていた生命が再び波打つ。
静かな湖に、また一匹また一匹と白鳥がやってくる。
春がくる。
花が咲く。
夏がくる。
虫たちが合唱を始める。
秋がくる。
鮮やかな色がつく。キンモクセイの香りがする。
冬がくる。
雪化粧をして、湖は新たな生命の誕生に準備する。

小さい頃の僕。

いま僕はこうして生きています。
そこにピアノはあるかい?
時には親密すぎて見失う事もあるけれど、それはずっと僕たちの体内に眠っているから、心配しないで。
天国はまだ遠い。
先はまだまだある。
そんな中で、人ひとりの力がたとえあまりにも小さなものだとしても、
生きるという事は、音を鳴らすということです。
人は音楽だったのです。
答えはいつもすぐそこに。
そして、宝物はいつも足下に。
迷うことも、道を誤ることも、無駄にはならなかった。

「強くあるなら、弱くあること」
今思うと、「こと」の中でこの歌詞のフレーズに力を入れた和音を弾いた事は、偶然ではなかったのだと思う。
僕の答えは、最初から最後まで、「ピアノを弾くこと」にあった。

2008.10.02

雨だれ

暗闇というよりは紺闇といった方が正しいだろう。
それは僕の閉じ込められている部屋の壁が紺色だからだ。
石造りの煉瓦で紺色をしているその壁が、闇夜に浮かぶ満月の光を物悲しく反射させている。
その部屋はとても高い塔の最上階にあった。
窓は、手の届かないくらい高いところに一つだけ、
真四角で子供が1人入るかどうかくらいの大きさの物があった。
その窓には二つ鉄の柵が掛かっていて、僕を閉じ込めるための絶対的に優位な力を示していた。
部屋には黄土色の小さな椅子と机があった。
赤い表紙のラテン語で書かれた本が一冊、その机の上に無造作に置いてあった。
僕の閉じ込められている塔は、中世ヨーロッパのお城にあった塔のような円柱型だった。
時折、部屋の窓の鉄柵に強い風が当たるとぴゅうぴゅう音がする。
僕はただその音を部屋の片隅で聴いていた。
この部屋で僕に与えられた光は、か細いロウソクだけだった。
ロウソクの火は僕に何かを訴えかけようとしているかのように表情豊かに右に左に無造作な動きを続けていた。
僕は椅子に座ってみた。
そして読めもしない本をパラパラとめくってみた。
色んな記号が紙の上に敷き詰められていた。
これだけある記号の一つだけでも欠けてしまってはいけないのだ。
小さな存在ではあるけれど、確かにいなくてはいけない存在。
僕は本を閉じて目を閉じてみた。
いつの間にか外では雨が降り出している。
大降りではないが、一滴がずっしりと重い。
僕は僕の存在を信じるために、唯一の光だったロウソクを一気に吹き消してみた。
僕は生きている。
だから火を消すことも出来る。
僕は、確かに、生きている。
でも、僕は閉じ込められている。
僕という存在に。
君という存在に。
僕のいる部屋は外側からしか開かないしくみになっている。
だから、君が迎えに来てくれなくては、僕は一生ここから出る事は出来ない。
呪いとも、宿命とも、象徴ともいえる。
これが、愛だ。
誰も知らない忘れ去られた塔の最上階の部屋で、
ただ独り閉じ込められているこの状況こそが、愛を表している。
僕は信じていた。
君が迎えに来る事を、ずっと信じていた。
しかし、さっきロウソクの火を消し去ったときに、その自信も一緒に消えてしまった。
君は来ない。
雨の音はたんたんとしたリズムを刻み続けている。
風が鉄柵に当たってぴゅうぴゅうと鳴いている。
僕は孤独なのだ。
死よりも遙かに罪深い孤独という悪魔に取り憑かれてしまった。
ロウソクの灯りがない、紺色の闇に包まれた冷たい石の壁は、僕から生命力を奪った。
そして、僕の人生からカラーを奪った。
全てが紺色になってしまった。
月明かりも、もう無い。
風の音は呪われた亡霊の脅迫に聞こえ、
一定のテンポで刻み続ける雨音は僕を追いかける悪魔の足音に聞こえた。
らせん階段の一番下の方から、何かが上がってくる足音がする。
雨音と妙にマッチしていて、それは恐怖というより不安というより、虚しさを表しているように感じた。
僕は塔の最上階の部屋に身動き一つ出来ずに閉じ込められている。
悪魔は雨音と同じテンポで塔のらせん階段を上がってきている。
ゆっくりと、ゆっくりと、しかし確実に。
僕は君を思い出す。
死に対して無抵抗で無防備なまま、君を思い出すこと以外に何も出来ない。
美しい君。あの、光り輝く太陽に水面が反射するような煌びやかな笑顔。
それは聖なる光を浴びて力づいた天使以外の何者でもなかった。
手を伸ばせば君の髪に触れられるような気がした。
目を閉じて、君を思い出しながら、僕は手を伸ばした。
しかし、その先には冷たい石造りの壁しかなかった。
そのごつごつざらざらとした邪悪な肌に触った瞬間、僕の中にある君のイメージが一瞬にして壊れた。
君の笑顔が傷一つ無いガラスに大きな石を投げた時のように砕け散る。
君の笑顔は4つくらいに大きく割れて、それぞれの割れ目から真っ赤な血が噴き出した。
僕はそのイメージに耐えられなかった。
目を開けると、らせん階段を上がる足音はもうそこまで来ていた。
あと少し。
あと少しだけ耐えれば、死がやってくる。
不安や恐怖への障壁は僕自身が創り出しているものだ。
僕は覚悟を決めた。
扉をじっと見る。
取っ手がゆっくりと下がる。
ついに悪魔が僕の部屋に入ってくる。
人生が走馬燈のように駆けめぐる。
思い出がバッハの大フーガの最後のストレッタかのように、僕の頭をドゥックスとコメスが追走する。
僕はもう一度目を閉じ、壁にもたれ掛かり、両手を前につきだして、ピアノを弾いている真似をした。
ほら、そこには音がある。
思った通りだ。
音は僕の中に生きていた。
いつでも傍にいてくれていたのだ。
ピアノが無くても、僕には音が出せる。
右の小指、次に人差し指、そして親指、ゆっくりと丁寧に動かしてみる。
ファ、レ、ラ。
確かに、今、ピアノの音が鳴った。
F D♭ A♭
ショパンのプレリュード「雨だれ」。
そうだ、この曲のメロディは死を覚悟したときの、安らかな気持ちなんだ。
それは、死への不安と恐怖を受け入れ、
それを自分のものにしたときにだけ一瞬現れる、砂漠のオアシスのような安堵だ。
中間部は力強く、しかし丁寧に、けして急いではいけない。
先に進むのではなく、来るものを拒まないような淡々としたリズム。
僕自身が動いてはいけない。
死のように向こうから近づいてくるのを待つのだ。
ただひたすら待っていれば、らせん階段を上がってくるときのように、一歩一歩ゆっくりと確実に近づいてくる。
それに怯えてはいけない。
その一つずつの音を音楽にして浄化するのだ。
僕は雨だれを丸々一曲弾ききった。
僕は笑った。
最高の君の笑顔を真似て、笑ってみた。

涙が出てきた。

笑うと涙が出るという現象を初めて知った。
もういい。
君は来なかった。
でも、僕はずっと、待ち続ける事が出来た。
涙は一滴だけ落ちて止まってしまった。
僕はその涙をお別れの挨拶のように感じる事が出来た。
死が、そこに立っている。
僕は目を開ける。
ゆっくりと、フェードインしてくるように。
雨音が遠くなり、やがて消えた。
雨が止んだ。
風はもう僕に向かって来ない。
ぴゅうぴゅうと、亡霊の脅迫を乗せて、僕を責めては来ない。
ドアの前には、君が立っている。
僕はもう一度涙を流す。
君がそこに立っている。
僕はまた涙を流す。
ただそれを繰り返す。
そして、君は僕を抱きしめてくれる。
君はそのとき、僕の耳元で、「ごめん」ではなく「ありがとう」と言った。
僕はその言葉に救われる。
君は僕を強く抱きしめる。
そして、僕は幸せを象徴する笑顔を浮かべる。
その笑顔は穏やかさを司っていた。
100年ぶりくらいにこの部屋に太陽の明かりが差し込んだ。
夜が明けた。
君は僕を待たせた。
でも、僕は何も恨んではいない。
君を待つ時間も、君が現れた時間も、とても綺麗な時間だった。
君は僕に時間の美しさを教えてくれたのだ。
ありがとうと僕は君にそっと告げる。
君にその言葉がちゃんと聞こえたかどうかは分からない。
君は僕の手を取って共に立ち上がり、ロウソクの方へ歩いて行って、優しく火を灯した。
もう、夜は怖くない。
灯りが戻ったから。
君が来てくれたから。
僕らはここで暮らす。
でも、もう閉じ込められているのではない。
紺色の闇は、月明かりをよりいっそう美しいものにしてくれる。
風の音は僕らのハーモニーを装飾してくれる。
ときおり降る雨は、二人を幻想的なパーティに招いてくれる。
全てが、変わった。
それが、愛だった。
それが、君だった。

僕は、そうやって、死を迎えた。


2008.09.30

水たまり 2

そこに溜まっていた水と、
僕が新たに差し出した水と青い金魚を一瞬にして飲み込んでしまった「穴」は、
何かの生き物の食道かのようにまっすぐと地底へ伸びていた。
僕は暫くその穴を観ていた。
すると、ゴボゴボと水が上がってくる音がした。
僕は青い金魚が一緒に帰ってくる事を期待した。
しばらくその穴をみていると、水が上がってくる音が段々と近づいてきた。
水はじわじわと僕の視力でも届くところまで上がってきていた。
僕は少しずつ少しずつ上がってくるその水をじっと観ていた。
金魚の姿はない。
金魚は恐らくどこかへと行ってしまったのだろう。
僕ははじめからその事を知っていた気がする。
もう、金魚は帰ってこないのだと。
僕は突然突拍子もない胸の苦しみを覚えた。
息が詰まるような苦しさだ。
これは、苦しさというより、切なさかもしれない。
体内で何らかのエネルギーがとぐろを巻き、僕の体を打ち破って外へ出たがっている。
僕は抵抗する事も出来ずに、そのエネルギーの渦を受け入れた。
そのエネルギーは、水かさと共に強くなっていくようだった。
僕の体が爆発しそうだ。
体中の穴という穴から光が漏れている。
水かさはもうみずたまりのいっぱいのところまで来ている。
僕は目から出ている光の強さに眩んで、やがて何も見えなくなった。
完璧な光の世界。
何もない世界。
影すらない世界。
ここは1ではなく0なんだ。
何もない。
無という存在。
それが僕だ。
人は誰かがその存在を認めてくれた時点で1人と数えられる。
僕は今、誰の世界にも存在しない。
僕はエネルギーの一部となって光に変化した。
今なら、何でも受け入れる事が出来る。
何でも。
僕は遠い日の記憶へと飛んでいった。
そこでは僕を男達が囲んでいる。
羽交い締めに合い、身動き一つ出来ないまま、僕は蹴られ殴られた。
蹴飛ばされて地面に叩きつけられると、泥が口に大量に入ってきた。
でも、大地は妙に温かかった。
「母なる大地だ」と僕は少し笑った。
僕の視界には、無数の男達の足が見えている。
その足が振りかぶっては僕の体にぶつかってくる。
それは僕に戦艦ヤマトが大量の敵空挺部隊にリンチに遭っている場面を連想させた。
痛みはもう感じない。
視力も麻痺して、動く物が全てスローに見える。
少し顔を上げてみた。
すると、男達の顔が見えた。
首から上は許せなかった。
彼らがコントロールしている体は許せた。
でも、彼ら自身の象徴である口元の笑みは許し難かった。
僕は、悔しかった。
悔しくて悔しくて、彼らに大切なものを失う辛さを味合わせてやりたかった。

僕は、そのとき、ボロボロに破けた服のまま、小学校の教室にもどって、小さな水槽に入った小魚を殺した。

水槽内の水に酸素を送る管が通っている丸い玉を必死に魚の体に当てて、魚が死んで浮いてくるまで当て続けた。
僕は殺してしまってから死にたいほどの罪悪感を覚えた。
翌日、担任の先生が、「残念ながら、小魚は死にました」とクラスに通達があった。
クラスのみんなはとても残念がっていた。
中には泣き出す女の子もいた。
しかし、あの僕をリンチした男たちは何ともないようだった。
でも、もうそれはどうでもいい。

月日が経ち、やがて僕は卒業式を迎えた。
卒業式の後で、どうしてもあの水槽が欲しいと僕は担任に頼んだ。
担任は「お前は最後まで変わったやつだな」と皮肉っぽい笑顔を浮かべながら水槽を僕にくれた。
あの、汚くて小さい水槽。
小魚をこの酷い世界から自由にしてあげれたという意見だけが僕の唯一の逃げ道だった。
僕はその水槽を大人になるまで大切に保管した。
ナルミという50代の女性が突然僕に青い金魚をくれて、それをその水槽で飼いだした。
そして、その金魚はもう10年も生きている。
いや、生きていた、と言った方が正確なのかもしれない。
僕は、ボコボコに殴られ蹴られたこと、小魚を殺したこと、水槽をもらったことを思い出した。
それだけ思い出すと、僕のいた無の光の世界は一瞬にしてどこかへ吹き飛んだ。
僕の前には水たまりがある。
そのとなりにはボロボロの水槽がある。
僕は水槽の中に水たまりにある水を入れた。
青い金魚のいない水槽。
それはポルトガルの田舎にある古城にも見えた。
ここに入っていた青い金魚はどこにいったのだろう?
死んでしまったのか、それともどこかで自由になったのだろうか。
僕は、大きな海を、くじらと一緒にあの青い金魚が泳いでいるところを想像した。

2008.09.26

水たまり

山吹色、黄土色、深緑。
僕の家の周りにはこの3色しかない。
前に住んでいた所は、ワインレッド、漆黒、ウルトラマリンブルーで構成されていた。
僕はこの色合いがとても気に入っていたのだが、
でも何故か突然、嫌気が差してどうしても引っ越したくなった。
嫌気が差したというか、疲れた。
ワインレッドというセクシーな赤に、宇宙のように深い黒、そこに煌めく星のようなウルトラマリンブルー。
ラピスラズリの輝きは、どんなに僕が絶望しているような時でも僕を慰め、希望を与えてくれた。
でも、そんな色合いに僕は疲れてしまった。
疲れは嵐の予兆である突風のように突然僕を襲った。
そのまったくの不意打ちに僕は抵抗する事すら出来ず、気がついたら今の所に越してきていた。
山吹色、黄土色、深緑。
今の僕の心境にはとてもマッチしている色合いだ。

ふと、窓から外をみてみる。

あんなところに水たまりがあっただろうか。
雨も降っていないのに、庭の真ん中に直径30センチくらいの水たまりがある。
せっかく山吹色と黄土色と深緑が絶妙な色合いを醸し出しているのに、
庭にはぽっかりと水色の水たまりが出来ている。
僕はその水たまりを見て、すごく嫌な気分になった。
僕はすぐ隣に置いてある青い金魚が泳いでいる水槽を両手に抱え、庭へと急いだ。

庭に着くと、僕は青い金魚を水たまりに離してみた。
「自由に泳いでいいんだぞ」と声をかけ、水槽の水ごと水たまりに注いだ。
しかし、水たまりは溢れることなく、新たなる水と金魚をすんなりと受け入れた。
水たまりの色は水色なのだが、何故か透き通っていない。
直径30センチくらいの水たまりの底はどうなっているのだろうか。
僕は手をいれてみようかどうか考えた。
水槽を地面に置き、恐る恐る水たまりへと手を伸ばしてゆく。
僕の中指の爪の先が水色の水たまりに着こうとしたその時、
直径30センチくらいの水たまりの奥から泡が上がってきた。
と思っていたら、船のスクリューのように水が渦巻いてきて、
その次の瞬間に「ゴッ」という素早い音と共に一瞬でその水たまりの中身が全て地底に吸い込まれた。
青い金魚も一緒に吸い込まれてしまった。
水がなくなった水たまりの奥は、地底深くへと続いていた。
その奥はあまりにも深く、暗かった。
その深さと暗さに何故か僕は一抹の悲しみを覚えた。
そして、いなくなってしまった青い金魚を思うと、不安と緊張がこみ上げてきた。

 〜つづく〜

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