一度きりの撤回3
考えてみれば、先生に譲って貰った事はほとんど無い。
連弾の時、必ず肘を僕にぶつけるほど振り回す箇所があって、僕の脇腹はいつもあざだらけになっていたから、
「先生もうちょっとその仕草少なくしてください」といっても、
「あなたが上手くよければいいのよ」と言ったし(実際に上手くよける技術をあみだした)、
飲みに行くと言い出してそのまま逃げ切れた事は殆どない。
言い出したらきかない、言ったら絶対やめない、そして、絶対撤回しない。
それが山岡優子先生だ。
飲み屋を渡り歩く時、腕を組んで「あなたは恋人よ」と言ってくれた。
そして、実際に飲み屋の主人に「私の恋人よ」と僕を紹介して回った。
僕も悪戯にノって「僕の恋人です」と先生を自ら先に紹介した事もあった。
先生は酔っぱらった勢いからか、「死ぬときは一緒よ」と言うことがしばしばあった。
「いやー、僕先生より早く死ぬと思うなあ」と僕が悪戯に言うと、
先生はまた僕の髪の毛を思い切り引っ張って、二の腕のところを勢いよく殴り、
その後一番近くにある体の部分をどこでもいいから思い切りつねった。
僕は、それを面白く思っていた。
言って置くが、僕は恋人に我が儘を言われるのが好きなタイプだと思うけれど、山岡先生はそれにぴったりだった。
夜の1時にようやく山岡先生から解放されて、
第3京浜を夜中の1時にバイクで1時間半かけて家に帰ったら(それも雨の中)、
帰ってすぐに山岡先生から電話がかかってきて、「ねえ、今から来てよ」と言ったり。
ギリシャ料理屋が開店まであと30分あるからって言って
「ちょっと焼き肉でも食べて待ってよう」と本当に焼き肉屋に入ったり。
急に「このバッカヤロウ!」とすごい剣幕で怒り出したり。
本当に色々な我が儘や傲慢があった。
でも、それを感じるのが僕は好きだったし、誰にでもそれは好かれていた。
そう、いつも台風の目であり続けた山岡優子先生。
そんな先生も、今となっては思い出と、バレンタインに僕に渡しそびれたチョコレートだけを残して去ってしまった。
先生がお亡くなりになったと聞いたとき、僕は何故か、初めてショパンの2番のソナタを聴いて、
それが終わった時と同じ感覚を覚えた。
そうだ。
先生自体が音楽だったんだ。
先生の人生は、一生ではなく、一曲だったのだと思う。
先生と同じ時期にパリに留学に行ってみたかった。
先生ともっと多くの談義をしたかった。
先生の科学的直感力をもっと解明していたかった。
もっとつねられて、もっと引っ張られて、もっと愛されたかった。
死ぬときは一緒だって、そう言ったじゃないか。
…でも、それはもう叶わない。
最終楽章まで終わってしまったからだ。
それはとても美しい事のようにも思える。
今僕は、先生が亡くなってしまったのを感じて、音楽が、終わりがあるから美しいと思えるときのように、
全ては終わりの瞬間のために動いていたのだと悟ったときのように、感動的だと思える。
最後まで現役で、最後まで音楽家であった山岡優子先生の人生に、最後だけだったけれど、
少しでも関われたことを、心から光栄に思い、幸せに思います。
山岡先生の一曲の最後のページの、最後3章節、いや、2章節くらいのところに僕のメロディが登場出来た事を、
とても嬉しく思います。
そして、今は、心よりご冥福をお祈りしています。
「先生、夜の音、僕にも出せるかな」
お葬式で手を合わせながらそう呟いたとき、僕は涙が溢れてくるのを止める事が出来なかった。
…曲は終わったけれど、最後に遺った言葉がある。
「死ぬときは一緒よ、と言った事、あれは『撤回』よ。」
それは、山岡優子先生の、最初で最後の、そう、初めての撤回だった。
僕の中で、ショパンのピアノ協奏曲第2番の2楽章が流れてくる。
そのメロディが僕らを慰めているように思えて、そして、先生の事を天国へと運んでいるように思えて、僕は泣いた。
今はコンサート帰りの新幹線の中でこれを書いている。
京都駅で列車が停まり、扉が開いた。
開いた扉から、客より先に、雨上がりの湿気の臭いが入ってきた。
そこには、新しい生命を運んでくる神秘的な美しさが感じられた。
そして、それは、長かった冬を乗り越えた僕らへの神様からのプレゼントにも感じられた。
「先生、もう春が来るよ」
僕は涙を隠すためにサングラスをしながら、黄金色と橙色が混ざり合っている黄昏の天に向かって呟いてみた。
ピアニスト山岡優子は、パリの夜の音として、今も僕らの中に生き続けている。
ふと、京都の空に、首の細い白鳥が消えて行くのが見えた気がした。
「先生、白鳥はやっぱり孤高の鳥だよ。それも撤回してよね」
と、また悪戯に僕は笑ってみた。
ありがとう、山岡優子先生。
僕は、先生との日々を愛しています。
完