空音
朝からピアノを弾いていた。
ずっと、時間を忘れて。
弾いていたのはショパンだとかそういうのじゃない。
ただ「降りてきた音」だけを無心に出す。
それだけだ。
人は「訓練」を積むと、空気中に漂っている音を掴めるようになる。
「訓練」とは実に単純で簡単だ。
ただ、色んな妄想をしていればいい。それだけ。
目に見えないものを見たり、そこにない料理の匂いを嗅いだり…
そういうことを続けていると、存在しないものが本当にそこに存在するようになる。
それが僕の場合「音」だった。
人によっては「色」だったり「香り」だったりするらしい。
僕は空気中にある音を探し出す作業やその音自体のことを「空音」と呼んでいる。
「空音」を繰り返していると、少しずつその場で曲が出来上がってゆく。
曲は完成されて弾かれた後、すぐにどこかに消化されてしまうが、それでいい。
それらの曲を録音しようだとか、楽譜にしようだとか、そういう風には一切考えない。
向かってきては過ぎ去って行く、秋の木枯らしか時の流れのように、
自然に消滅していくのが本来の音楽の姿だ。
秋の穏やかな朝から「空音」をしていたのは、
平穏でとても美しい時間だったが、精神ではなく身体がさすがに疲れてきた。
気付けば目の奥の方がどくどくと痛む。
頭の中で踏み切りが鳴っているかのようだ。
腕も熱をもっていてひりひりする。
僕は少し風に当たろうと思って立ち上がってみようとしたが、足に力は入らなかった。
それから暫く(といってもどれくらいの時間だかわからない)僕の足はふにゃふにゃのごむのようになってしまっていた。
身体が言うことをきくようになるまで、僕はピアノの鍵盤に覆い被さるようにして休んだ。
こうしてぼーとしていると、部屋がみるみるうちに暗くなってゆくのがわかる。
僕の後ろに今の僕と同じ様な格好をした「ビル・エヴァンス」の写真がある。
僕はいつもこの「ビル・エヴァンス」の写真を見る度に、彼のことを「壁」だと思う。
音楽の世界と人間界の境界線にある壁だ。
彼は、どちらの世界も行き来できる。
でも、彼自身に感情や意見はない。
ただ、彼は境界線という役目を果たしているに過ぎないのだ。
僕は、彼の音楽を聴く度に、そして彼の写真を観る度に、いつもそういう感覚を覚えてきた。
一体どういう人生を送るとそのようなオーラが出せるのだろう。
…さて。
僕の身体は大分回復したようだ。
僕は風に当たりに行った。
秋と冬の狭間を遊ぶ風。
僕は2階にある自分の部屋の窓を全開に開けて「狭間の風」たちを招待した。
随分と冷たい風だ。
でも、真冬のそれとは違う。
狭間の風には、冷たさの中にも優しさが感じられる。
変な話だけど、風なのに血が通っていて体温がある感じがする。
僕は目を瞑って狭間の風をより実際的に感じてみた。
通り過ぎてゆく彼らは、…やはり音楽のように感じた。
もしかしたら、感動というのは、通り過ぎていく過程で起こる現象なのかもしれない。
そんな気がしてならなかった。
ふと目を開けると、家の前の道を誰かが歩いている。
青年だ。
たぶん20歳かそこらだろう。
手には白いA4サイズほどの紙を持っている。
何だろう?
ここら辺はあまり人通りがないのだけど、彼はここで何をしているのだろう。
あの紙は地図で、知人の家にでも遊びに来たのだろうか。
何にしても、彼の人生に僕が関わることはきっとない。
新幹線で名も知らぬ村を過ぎ去る時に見える民家のように、彼は僕を通過し、僕は彼に通過される。
それだけのことだ。
その後、彼は僕に気付き、ふと目線を僕の目の奥に射してきた。
その時僕の目の奥の方ではもう踏切は鳴っていなかった。
「さて…。もう一度、宛てのないピアノの旅に出るとしよう」
誰のためでもない、自分のためでもない、
この世に生まれては消えてゆく、儚い音楽を探す「空音」の旅に…。