【素敵なBARカウンターでしょ?】
幼い頃、思春期、そんな「人生の前半」では、人間はまだ自分自身の生に責任を持てない。
だから、自分が嫌な目に遭う事を受け止められない。
自分がそんな目に遭う筋合いが理解できないのだ。
大人になって、やがて自分自身の生に責任が持てるようになったら、
どんなに嫌なことがあっても、
ある程度は自分に問題がなかったか、自分が悪かったのではないか、
と理解をしめそうとする。
でも、若い時は別だ。
人は、生まれもって「幸せな動物」だと自分の事を思っている。
誰にもいじめられず、誰にも恨まれる筋合いはないと、そう信じている。
ある意味では自己中心的かもしれない。
しかしそれらの罪の責任は、「子供だから」という理由で大体は消去される。
でも、理解というのは良い物かどうか、それを判断するのは難しい。
理解するという事は、何かを知るという事だ。
知ってしまった以上、もう考えにくくなってしまう事もある。
知って失うものも、ある。
人生の前半でしか考えつかない事があるのだ。
人生の長い時間にしてみれば、
闇夜からワープしてしまうかのように消えて行く流れ星のようかもしれない。
子供時代や思春期は、それくらい一瞬のものだ。
一瞬だけど、きらめきのある、輝かしいものだ。
アイディアや閃きの宝庫とも言える。
しかし、僕たちは人生の後半にかけて、その輝きを失いつつある。
覚えている事もあるけれど、やっぱり失うものも多いだろう。
僕は子供の時、一体どんな夢を持っていたかな?
もう1人の自分に問いかけてみる。
子供の時分は、しっかりと自分の中に生きているのだ。
いつまでも歳をとらず、ネバーランドにいるかのように、僕の中で時間を止めている。
その時分に問う。
僕は一体どんな夢をもっていたのか。
…そうだ。
ピアノをやっていて中々学校に行けなくていじめられたり、
授業についていけなくて孤独感を味わったりしていた僕は、
とにかく人の輪に入りたかった。
はっきりいって、ピアノなんて二の次だった。
まずは友達を作って、人間の輪に入ってみたかった。
「友達が出来ますように」
そんな願いをクリスマスのサンタに向けて強く贈っている子供も、確かにいるんだ。
今だっているだろうな。
辛さを表面に出せる人もいれば、元気なふりが出来る人もいる。
僕はどっちだったかな。
とにかく、僕は自分が嫌いだった。
自分の生に責任を持てない時期だから、僕がそんな目に遭う筋合いがわからなかった。
だから、何かのせいにしなきゃ生きている事自体が屈辱だった。
だから、僕は自分を恨んだ。
恨む対象として、自分を選んだんだった。
ずっと忘れていた。
でも、今でもふとした瞬間に思い出すことがある。
自分が大嫌いだった事を。
今から考えると、どうして自分が嫌いになってしまったのか、よくわかる。
今自分の前に子供時代の僕が現れたら、すぐにケアしてあげたい。
君は悪い子じゃない。
君は悪くない。
君は、思いっきり泣きたいんだ。
でも、泣きつける相手もいない。
泣きっ面を見せられる程心を開いた相手もいない。
そして、何よりも、本音を言うのが怖い。
本気になる事が怖い。
自分が価値のない人間だと自分自身で確信してしまうのが、怖いんだ。
自分だけが、自分を愛してあげられる最後の1人だから。
自分だけが、自分を解ってあげている最後の1人だから。
この最終ラインを、突破されたくないのだ。
大人になってきている今、そういう過去はずっと忘れていた。
でも、今は色んな人に愛されている。
子供の頃、命と同じくらい大切なピアノを投げ出してまで欲しかったものが、
手を広げて僕を歓迎してくれている。
「僕は、人の輪に入っている。」
そんな事をステージの上で、僕はいつも感じている。
まだまだ僕には引きずっているものがある。
でも、色々と、失ったものがあるのは、大人になったからじゃないかもしれない。
今まで生きてきて、色々な事を得たからかもしれない。
子供の頃、思春期、そんな繊細な時期にダメージを受けた人間は、
いい人になるか、悪い人になるか、ぎりぎりの所で生きている。
どっちにも転べる。
もしくは、どっちも持っていられる。
親切過ぎる程優しい心と、冷酷で残酷な感情、それを同時に持っていられる。
でも、言い換えれば、何かを引きずっていて人を無差別に恨むような人にも、
誰よりも優しい天使のような心があるんだ。
いつでも悪魔と対決して打ち勝たなくてはいけないという呪いがあっても、
負けるな、子供たち。
僕は、あの、闇夜に浮かぶ一瞬の煌めきのような時代を、ずっと忘れたくない。
たとえそれが受け入れたくない過去であっても、
しっかりと僕の中で生き続けている子供の僕を、優しく包んであげたいと、そう思う。