清塚信也 OFFICIAL BLOG: DIARY

DIARY

2009.09.14

はなび、せつな。

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こんなこと言ったら、きっと花火職人からは怒られるんだろうけど、
僕は花火大会が楽しいと思ったことがあまりない。
学生の頃、多摩川やら東京湾やらに観に行ったことがあるけど、
花火よりも人混みのストレスの方が先立って、殆ど良い思い出がない。
学生時代が終わってプロのピアニストとして生活するようになってからは、
結構、人がうらやむようなシチュエーションで花火を観ることが出来た。
みなとみらいホールの上で豪華なお弁当を食べながらとか、
湘南の丘の上に建っているものすごく豪華な豪邸からとか…
でも、やっぱり花火に対しては何の印象も残っていなくて、
楽しかったのは、あくまでその場の空気だったり、ふれあった人々だったりする。
う〜ん、もちろん花火が綺麗なのはわかるんだけど、
なんだか最初の2〜3発を観たらもうお腹いっぱいになってしまう。
それ以降は「どうしたらいいんだろう」みたいな気持ちが出てきてしまって、
ちょっとした虚無感なんかを覚えてしまう。

「大体、花火って何をみるものなんだ?」
前にそんな質問を友人にしてみたら、
「ただ、観るんだよ。ただ」と言われて、
「そうか、ただ観るものなんだな」と納得したんだけど、
やっぱり花火大会に行ったら、
花火の先にある「教訓」だか「美学」だかを探したくなってしまって、
それでいつもソワソワしてしまって落ち着かない。
しかも、その先にある何かを探せば探すほど
花火はのんきなひまわりくらいにしかみえなくて、残念に感じる。
そうだ、僕がこんなに一生懸命に花火から何かを探しだそうと必死なのに、
花火からは何もしてこない、その冷たさみたいなことにちょっとイラっとくる。
でもね「花火大会に浴衣を着て行こう!」なんて夏休みシーズンに女の子から誘われたら、
それはもうワクワクを通り越してゾクゾクしちゃう。
そういう風物詩的な楽しさは僕にも大いに理解出来る。
だから、来年の夏も花火大会コンサートが出来たらいいなぁなんて思う。

ところで、皆さんは花火の一番綺麗なシチュエーションを知っていますか?
花火が一番綺麗に見えるシチュエーションといえば、
そりゃもう、帰りの新幹線から見える、どこかの河原でやっているひっそりとした花火大会です。

昨日…。
神戸新聞松方ホールでのコンサートを無事に終えて、
ちょっとした疲れを実感と絡み合わせながら、
18時45分に神戸から新幹線に乗って、東京への帰途、
静岡県の浜松か掛川のあたりで大きな花火が上がっているのにふと気付く。
その瞬間はあっという間に過ぎていってしまう。
新幹線からはほんの数秒しか花火を観ることはできない。
でも、新幹線から見える夜の風景は殆どが止まって見えるから、
花火が唯一動きのあるものとして、あたたかくみえる。
それに、その花火の周りをよく見てみると、人が沢山集まっていて花火を楽しんでいるのがわかる。
そんな情景を花火の逆光で出来た影だけで見ていると、とても不思議な感覚に陥る。
それはとても幻想的で、なんとなく切ない世界観だ。
井上陽水さんの歌詞のような世界っていうのかな…うまく説明出来ないけど。
その時僕は「あぁ、あそこにも無数の人生があって、人間社会があって、愛も恋もたくさんあるんだ」とか考えながら、
自分が確かに東京に近づいているのだと感じるし、僕はひとつの小さな町を通り過ぎているのだと感じる。

今回の神戸での仕事が終わってゆく…ということをリアルに感じられるし、
今日という一日が過ぎ去っていくことも感じる。
新幹線って、進むというより、過ぎ去るって感じだ。
その切ない美学的なことを花火が痛烈に感じさせてくれる。
まぁ、つまり「あぁ、僕って生きているんだな」って感じさせてくれる一瞬なのです。

何だか、生きるって切ないよね。
よくわからないけど、自分の人生やら人の人生やら、色んなことが愛しく感じられて切なくなる。
音楽は音楽以外の特別な意味って持ってないような気がするけど、
もしかしてああいう刹那的な美学ってあるかもしれないって思います。

2009.09.11

ラプソディ・イン・ブルー

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【ピアノの孤高な響きは、夜の旅への誘い。ワインのような甘い罪悪感か、ティオぺぺのようなワイルドな味わい、
 どちらをオーダー致しましょうか。旅にはほろ甘い酒と孤高な音に限ります】

 ♪  ♪  ♪   ♪   ♪

CDが発売になりました。
既に沢山の方からの激励が、僕のもとに届きました。
ありがとうございます。

今回のアルバムのテーマは「旅」です。
僕は、実際に旅をしながらピアノを弾いているだけではなく、
よく妄想で自分の中を旅するのですが、そういうことって皆さんはあまりしないですか?
僕は子供の頃から自分の中の旅が結構すきで、
雨の日の日曜日なんかはよく、
延々と窓の外を眺めながら色んなことを妄想してました。

 午前中なのに薄暗くて、世界が灰色に染まって見える。
 そんな中に赤い傘をさして自転車に乗る少女なんかが絵になっていて美しかった。
 黄色い長靴が幼稚さを象徴し、赤くてちょっと大きすぎるような傘が、
 少女のませた部分を象徴しているように感じた。
 少女は何をするでもなく、ただただ自転車をこいでいた。
 ただただ……。
「あの子はどこへ行くのだろう?」
「お母さんはどんな人かな?」

……なんていう風に思うと、
そこから勝手に物語を作ったりして、それに音楽をつけて遊んだりもしました。
今考えると、僕の妄想には必ずBGMがついていたなぁ。
もしかしたら、今回のCDでやりたかったことは、
僕が子供の頃から既にやっていたことなのかもしれませんね。

その場その場で自分の欲しい音楽を、自分の頭の中で鳴らす。
思えば僕が作曲を始めたのもそういう経緯があるかもしれません。
段々繋がってきた…。
僕がピアノを弾く理由……。
いつか、はっきりと答えが出る時が来るのだろうか?
うーん、答えはどうでもいいかなとも思う。
そもそも、答えを出したいわけじゃないんだ。
ただ、答えを追っていたいだけだ。たぶん。

僕は理由を知らないままピアノを弾き始めて、
20年以上も弾き続けてきた今になって、
「どうして自分がピアノを弾いているか」を真剣に考えるようになった。
これって、人生そのものですね。
人の生も、どうして生きるのかを探すための「生」だ。
でも、結局最終的には誰もそのハッキリとした理由なんて
どうでもよくなっちゃうんじゃないかな。
ただ単純に誰かを愛して、ただ単純に幸せだと思う。
それだけの単純な事が思い出となってその人の一生を
表参道やみなとみらいのクリスマスツリーみたいに、ぴかぴか飾り付ける。
ただただ、生きるんだ。
ただただ。
あの自転車の少女みたいに。

まぁ、考え出すときりがないや。
とにかく、CDは「眠れぬ夜旅のBGM」にしてみてください。
音楽は、あなたを別世界への旅路へと誘ってくれるはずです。
集中力も忍耐力も必要ない。
ただ、あなたのイマジネーションだけがあればいい。
外に出ない人、人と会わない人、そういう人には自分の体内に大きな世界があるのです。

あなたはどんな世界を持っていますか?
僕はそこに大きな興味を持っています。
全世界の全ての人々と、自分の持っている世界の話をしてみたい。
もし僕が「メフィストフェレス」に何でも願いをかなえてあげると言われたなら、
間違いなく、全ての人と話が出来るチャンスを作ってもらいます。
不老不死なんか、微塵の興味もないのだけれど、皆さんはどうですか。

さぁ、今宵も不思議な夜の時間がやってきた。
僕はそろそろ旅へと出かけます。
でも、深入りは禁物です。
入りすぎたら、戻って来られなくなるかも、しれませんから、ねぇ。

2009.09.06

独りの王国

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【僕も人と喋るのとかすごく緊張するので、毒に変える訓練をする為に、高嶋さんに弟子入りしようかなぁ。断られるかなぁ】


僕は昔からわりと独りぼっちというのが好きだった。
音楽教室とかでも「はい、じゃあ2人一組になって」という
先生の言葉が聞きたくなくて、いつもドキドキしていた。
子供の頃から遊ぶときも独りが多かったし、
独りで妄想したり引きこもったりゲームすることが好きだった。

でも孤独は「数人の親友がいてくれてやっと成立する」ということを忘れてはいけない。
なんというか、僕はそれを本能のように潜在的に子供の頃から感じていた。
まぁ、孤独というか、なんというか、ただのワガママですよね、いわゆる。
でもまぁ、とにかく、今になっても独りの妄想は続いていて、
しょっちゅう時間さえあれば妄想したり独りでふらふらしたりしてる。
例によってこういう人は、たいてい「孤独を愛する…」とか何とか言っといて、
「実は寂しがり屋」というワガママの王様みたいな人が多いのですが、
僕もそのひとりで、時々寂しくてしょうがなくなって、
少人数の「親友」に夜な夜な電話しては、
叩き起こして遊んだりドライブしたりするんですけど、
今思えばなんて贅沢なことをしているんだ、と反省することばかりです…。

孤独な時は「誰かに会おうと思えば会える」と思っているし、
誰かと一緒の時は「独りになりたきゃ独りになれる」と思っている。

こうやって贅沢な選択肢を持っているということは、なんて幸せなのだろう。
落とし穴がきっと待っているに違いないという、
幸せの絶頂期特有の一抹の不安を感じながらも、
いつも快感に噎び泣いている。

でも、今語ったことを簡単に要約すると、
「僕は独りが好きで、あんまり友達もいなくて、
いつも妄想ばっかりしているんですよ」って言うことになる。

だから、ラジオなんかで自分を説明しなきゃいけないときは大変だ。
自己紹介だけにあまり時間を使うことも出来ないしね。
こないだも高嶋ちさ子さんのラジオにお招きいただきまして、
ご一緒におトークをさせていただいたのですが、
やっぱりこういうのを説明するのは難しくて、
要約して話した結果「く、暗いね…」と言われてしまった!
まぁ、確かにきこえは暗いかもしれないな。
でも、暗いって言われるの結構嫌いじゃないので「まぁいっか…」と思う今日この頃です。

高嶋さんは、私の毒舌は、緊張が形を変えて毒になってしまう」というようなこと
おっしゃっていましたが、それってすごく分かります。
緊張すると毒舌になっちゃう人って世の中にどれくらいいるんだろう?
高嶋さんは、本番とかメチャクチャ緊張するらしいので、生演奏のときは更に強い毒をお吐きになられるのだろう。
わかるなぁ。わかる。
でも、あんなにお綺麗で、ご活躍なさっていて、
ヴァイオリンだって上手なのに「吐きそうになるほど」緊張するみたいです。
やはり、ご自分に厳しいのでしょうね。
高嶋先輩!またラジオで僕の「独りの王国」のお話、聞いてくださいね〜。

ということで。
この度、高嶋さんのラジオ番組内にて、僕の「妄想の世界」のことを、

    「独りの王国」

……と名付けてもらいました。

帰りの車で、わあいわあいと喜びましたとさ。
めでたし×2


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 FM愛知「高嶋ちさ子 Gentle Wind」
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・9月11日(金)21:30〜21:55 ON AIR
 清塚信也ゲスト出演(第1回目)

・9月18日(金)21:30〜21:555 ON AIR
 清塚信也ゲスト出演(第2回目)

2009.09.01

荒川静香さん

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【7月29日・国際フォーラムにて】


僕は何をしているんだろう。
僕は何をしていたんだろう。
一度きりしかない人生を、全く無駄に使ってしまった。
必死でピアノを弾き、青春の全てをささげて勉強してきたのに、僕の中には何も残っていない。
僕の音楽は誰も救うことが出来ないし、何も変えることが出来ない。
全く役に立たない。
一人の友達もいなかった子供時代、ピアノさえ上手く弾ければ全てが上手くゆくと思っていた。
でも、そんな事は全くなかった。
砂漠を歩いても歩いても、結局、砂漠が広がってるだけだ。
友達が出来るどころか、心に孤独の影がどんどん広がってくるだけだ。
人生ってこんなに孤独なものだろうか?
みんな、誰もがこういう孤独を持っているものだろうか?

眠れぬ夜が続く。
毎日、朝方、爽やかな小鳥のさえずりを聞くまで眠れない。
ふとTVをつけてみる。
TVではオリンピックのフィギュアスケートをやっているようだ。
荒川静香さん。
僕と殆ど同じ年齢だ。
その演技は光り輝いている。
プッチーニのトゥーランドットに合わせて、優雅に氷を舞っている。
内面的な表現の中にエキサイティングな大技を決め、
そして、エレガントに空を飛ぶ鳥のように氷を滑っている。
僕はその演技を何も考えることが出来ずに観ていた。
息をすることも忘れていた。

これが、演技というものだ。
人に、落ち込むことも、悲しむことも考えさせない。
ただただ、美しいのだ。
ただただ。

あれからどれくらい月日が経っただろう。
青年期特有の未来への不安も殆ど無くなり、
今はピアニストとして自覚を持って歩みを続けることが出来ている。
それほど長い期間経っているわけではないとは思うけど、すごく長い時間がそこに埋め込まれている気がする。
ブラックホールのようにエネルギーが充満している期間だ。
「清塚さん、時間です」楽屋に呼び出しの館内放送が流れる。
今日は東京フォーラムで荒川さんと共演する。
何だか不思議な感覚だ。
僕はあの時この人に勇気を貰ったし、それで立ち直ることも出来た。
その人が僕の目の前にいて、僕と一緒に音楽を奏でる。

本当に、人生とはわからない。
地獄より地獄的だと思うほど、辛い時もある。
でも、止まない雨はないのだ、本当に。
嵐の後の快晴は、見事に美しく感動的だ。
僕はステージの灯りをたくましい太陽の陽射しに感じて、国際フォーラムでの音楽を楽しんだ。

2009.08.19

チャッチョムチョイサイツァイ

「す、すみませんが、もう一度お名前をお聞かせ願いますでしょうか…」
ホテルのフロントで受付をしているその女性は、冷や汗をかきながらもう3回も同じ質問をしていた。
こんな所をボスに見られたら大変だ。周りの従業員も顔をしかめながら「大丈夫かよ」という顔をして、
さっきからこっちをちらちらと見て様子をうかがっている。

「だからね…、何度も言うけど、僕の名前はチャッチョムチョイサイツァイです」
「…はぁ。サッチョムツァイ…ですね?」

フロント女性はもう聞けば聞くほどこの名前が聞き取りづらくなっていった。
考えれば考えるほど、この名前は山間を抜けていくやまびこのように小さくなって消滅していった。
フロント女性はじっと脇に汗をかきはじめている。これ以上、これ以上はもう聞き返せない。
そんな事はプライドが許さない。

(もう一度心の中で言い返すのよ、私はもう3回も同じ名前を聞いているの。
 私の脳の中にはすで3回分のチャッチョムチョイサイツァイがいるの。
 そう、ほら、心の中では言えるじゃない。落ち着くの、落ち着くのよ洋子。
 あなたはプロフェッショナルなの。もう、幾度となくピンチを切り抜けてきたじゃない。
 一度は100人以上のヤクザ達が飛び込みで宿泊したいというのを追い返した事もあったし、
 一度は指名手配中の連続殺人事件の犯人を宿泊中に捕まえた事もある。
 そう、私は無敵のフロント娘洋子なのよ。
 こんなチャッチョムチョイサイツァイさんなんかに負けてたまるものですか!)

洋子は額に浮かぶ汗をジャケットのポケットにあったハンカチで丁寧にぬぐい、
意を決めて、大きく息を吸い、もう一度名前を繰り返そうとした。
「チャッチョム…」と言いかけたところで誰かの声が割り込んで来た。
「201号室の木村です。鍵をお願いします」
この男、確かもう1週間も滞在している。
それにしても、この木村という男、どこかで見たことがあるような…。
その時であった。
洋子の脳の中には、夏のヨーロッパの通り雨の時のように急激に雨雲がもくもくと現れ、鋭い雷鳴がこだました。

(そうだ、あの木村という男、中学の時私を延々といじめていた男だ。
 あの地獄のような日々、私は耐えられなかった。鞄には虫を入れられ、
 教科書には落書きをされ、雨の日には泥をぶつけられ、傘でつつかれた。
 まだまだ、思い出せば脳のメモリが足りなくなってしまうくらい沢山のいじめが思い出される。
 思えば、あの時私は一度死んだのだ。
 あのいじめのせいで、私は全ての自信とプライドを失ってしまった。
 でも、私は生まれ変わったのよ。あれから、そう、あれから長い道のりだった。
 自信とプライドをもう一度見つけ出し、必死で学び、ダイエットもした。
 私は、もう昔の私とは違う。
 でも、今、私の目の前にいじめの根源だった男がのうのうと立っている。
 それも、私に鍵を出せと命令している。
 どうしたの洋子?さぁ、鍵を差し出すのよ。
 この男に、プロフェッショナルになった私のすごい鍵の渡し方を見せるのよ。
 おーほほっほっほー。
 見てなさい、あなたに生まれ変わった私のスーパーテクニックを見せてあげるわ!)

フロント女性は鍵を男に差し出した。
その手は自信とは裏腹に、小刻みにふるえていた。
男は訝しげにその鍵を受け取った。
受け取る時に少しだけ男の手と触れ合った。
「あの、失礼ですが、どこか具合でも悪いのですか?
 手が震えているし、それに指先はこんなに冷たくなっている」

ちゅどーん!
フロント女性の頭の中では核爆弾が爆発していた。
よりにもよって、プロフェッショナルと生まれ変わった私の神業を見せつけるどころか、
心配をおかけして、更に優しくされるという醜態までさらしてしまった。

やめて、やめてよ。私に心配なんかご無用なのよ。
私は独りで生きていけるの。だから放っておいて。お願い……。
「もしもし?」
お願いよ。優しくなんてしないで…
「あのォ、もしもしー? 聞こえますかァ?」
私は生まれ変わったの。
もう昔のあなたにいじめられていた頃の私では…
「チャッチョムチョイサイツァイですがァ、あのォ、聞こえていますかァ?」
ちゃっちょむ…?なによその名前…
……
………
…………!!

(そうだ、私は電話中だった!)

「す、す、すみませ〜ん!た、た、ただいま取り乱していまして…、
あれ? 取り乱す? なんて事をお客様に言っているのでしょう!
すみません、なんと言ってお詫びをしていいやら…。
もう、私真っ白になってしまって…。
ええと、サッチョムチョ…あぁ、もうだめです。
もう一度、もう一度だけ、あなたのお名前をお聞かせ願いますでしょうか…?
すみません。本当にすみません!」

気がつくと、フロント女性はかつて自分をいじめていた男の手を握っていた。
鍵を渡したままの格好で、何とも情けない姿勢だった。
「あのー、すみませんが…、手を、離していただけますか?」

真っ白な世界。
それ以上でもそれ以下でもない、真っ白な世界。
ここは私の脳の中なのだろうか。
ふと気付くと、後ろに誰かが立っている。顔は見えない。
全身から光が射していて、全てが逆光になってしまう。
しかしどうやら、その人は私に手を差し伸べているようだ。
私は握手をするようにその手を握った。
手は温かかった。
その温かさから光が全身に入ってくるようだった。
なんて温かいのだろう。
あぁ、なんて心地よいのだろう。
なんて落ち着くのだろう。

……気がつくと、私は男の手を握ったまま、もう片方の手では受話器を持っていた。
男は顔をしかめている。
電話先ではチャッチョムチョイサイツァイが「もしもし」と言い続けている。
私はこの男の手を離さない。
決して、離さない。
逃がさない。
フロント女性は、男の手を強い力で握った。
そして、男の目をじっと睨んだ。
男は驚いて汗をかいていた。
「もしもし、チャッチョムチョイサイツァイさん、ご予約は明日の14時チェックインでお間違えないですね」
「はい」
「チャッチョムチョイサイツァイさんはお一人様ですか?」
「いいえ、妻と一緒です」
「かしこまりました。チャッチョムチョイサイツァイ様、2名様で承りました」
「よろしくお願いしますね」
「チャッチョムチョイサイツァイさん、当ホテルは大変入り組んだ道の中にあります。どうぞ道中お気を付け下さいませ」
「こりゃこりゃ、ご親切にどうも。それでは明日、よろしくお願い致します」
「さようなら、チャッチョムチョイサイツァイさん」
「さようなら、ホテルの受付女性さん」

男は後ずさりした。
「お前、あの時の…」
「ええそうよ! 私はスーパーホテル受付嬢洋子よ! もうあなたにいじめられていた洋子ではなくってよ!!」

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