清塚信也 OFFICIAL BLOG: DIARY

DIARY

2007.06.28

親友。

ショパンとリスト

親友でありライバル。

同じ時代を生きた、人類史上まれに見る偉才。

そんな2人には対照的な事がたくさんある。
まずは、手の大きさ。
ショパンは10度が届くか届かないかの大きさに対して、
リストは12~13度も軽く届いていたそうです。
身体も、
ショパンは身長170cmくらいで、亡くなる時の体重は50キロも満たないくらいだったのに対して、
リストは、筋肉質で大柄な男らしい体系だったそうです。
性格も、ショパンはミステリアスで少し内向的な性格で、
リストは、明るく元気なジャニーズ系。笑
好んで使ったピアノも違う。
ショパンは、繊細で美しい音の出るプレイエルというメーカー。
リストは、ダイナミックで活力のある音が出るエラールというメーカー。
(因みに、僕はヤマハが好きです。世界で一番いいピアノだと思います。)

そんな2人は、生きた人生まで対照的です。

ショパンは、8歳の頃から結核に蝕まれており、血を吐きながらも、咳き込みながらも、
ピアノを弾き続け、曲を作り続けました。
そして、苦しんだ人生の幕は、39年という短い年月で下ろされます。
リストは、病と言えば「恋の病」ばかりで、敬謙なカトリック信者ながらも、不倫や浮気を繰り返し、
色々なところに逃亡したり、駆け落ちした先の国で新しい芸術と触れ合ったりして、
76歳まで生き続けました。

2人は、親友であり、好きライバルでもありました。

パリで出会った二人。
対照的だからこそ、お互いを高めあい、お互いを尊敬しあっていたのではないのでしょうか。
ジョルジュ・サンドをショパンに紹介したのも、このリストだと言われています。

76歳まで生きて、半分くらいの39歳の時、最高の親友を失ったリストは、
晩年に、よくショパンの話をしていたと言います。
「懐かしいなぁ、君はまだ生まれていなかった頃だけど、僕には最高のライバルがいたんだ」
年老いたリストが、自分の生徒に話している姿が、目に浮かびます。

ある日、ショパンの「別れの曲」を聴いて、リストはこう言いました。

「この曲を作れるようになるのなら、僕の今までは全て投げ捨てられる」

あぁ、美しい友情だなあ。
僕でいえば、ケンちゃんにあたるのかなぁ。
うん、そうだろうなぁ。
でも、早く死ぬ方は、僕だろうなぁ。笑
それもそれでいやだなぁ。。。

な~んて考えていた今日この頃でした。

明日の藤沢、皆様にお会いできる事を、僕も心待ちにしております。

因みに、リストの書いた名曲「愛の夢」は、ショパンが亡くなった直後に書かれている曲です。
なぜか、ショパンの大好きだったノクターンを書いたリスト。
何か、心の内に秘めたショパンへの友情があったのかもしれません。
その事が、明記されている資料が何一つないところが、また、いいじゃありませんか。

明日は某有名テレビ番組の取材カメラも入るそうです。
僕たちの愛の力を、見せ付けちゃいましょう^^/

2007.06.27

遥かなる舟歌の旅

ショパンが殆ど亡くなる直前に書き上げた曲。
その頃には既にコンサートなんて出来る状態じゃなかったから、
きっと、頭の中で色々な想像をして書き上げたのだろうと思う。
左手は、しっとりとした緩やかな波を、
右手は、ショパンの大好きだった、イタリアカンツォーネのような響きを、
切なく、そしてロマンティックに表している。
そう、「切なく」表している。

普通、「長調」というのは明るい調の事を言う。
悲しい、切ない、暗い、などの表現は「短調」で行う事が多い。
でも、この舟歌は、長調だ。
明るいはずの長調なのに、ショパンに表現させると、なぜか切ない。

どうしてだろう?
笑ってはいるけれど、どこか寂しそうに見える。
そんな風に感じられる。


僕は、中学1年生の時、初めてコンクールに落選した。
それも、予選で、だった。
それまで、音楽教室の試験でも、そのほかのオーディションでも、コンクールでも、
「敗北」を味わったことがなかった僕には、本当にショックなことだった。
子供は、すぐに調子にのる生き物である。
だから、僕もそうだった。
1位にならなくても、必ず3位以内には入っていたし(運が良かっただけなのですが)、
子供ながら、「ピアノって簡単だなー」なんて生意気な事を考えていた。

それが、中一の時、突然の落選によって、全ての夢が打ち砕かれてしまった。

「僕は天才じゃなかったんだ」

全てが上手く行き過ぎていたせいで、自分を「天才」だと信じ込むほどバカになっていたのだが、
このショックのせいで、僕はスランプに陥る。
いや、スランプというか、ピアノが嫌いになる。
「もう、音楽なんてこりごりだ」
そんな風にさえ思っていた。
だから、得意だった野球で生きていけないかと必死で模索した。
でも、音楽から目を背けようとすればするほど、自分がまた嫌いになった。
だから、苦しかった。

苦しんで苦しんで苦しんだ挙句、もう一度だけ、音楽を好きになる努力をしてみようと思った。
最期のチャンスだと思って。
それで、自分で弾くのはまだ無理だったから、他の人の演奏を聴こうと思った。
色々な演奏を聴いた。
コンサートはもちろんの事、人のレッスンまでも立ち入って聴いていた。
僕の中で、落選した同じコンクールにリベンジしないと、先へは進めない事がはっきりしていたので、
焦っていた。
早く、早く取り戻さなくては、もう間に合わない。

でも、やらなきゃと思えば思うほど、音楽やピアノは僕から遠ざかって行った。

「こんなに好きになろうと努力しているのに、どうして歩み寄ってくれないのか」

僕は疑問でならなかった。
「努力は必ず報われる」と信じていたから。
でも、いつまで経っても、音楽を好きにはなれなかった。
もはや、落選したことは、ただの「ショック」ではなく、「コンプレックス」となっていた。
僕は、心を閉ざした。
希望を持とうとすればするほど、いつも傷つく結果になるから。
そして、僕の心の中の灯火は、完全に消えてしまった・・・。

肩の力がふと抜けていった気がした。
それまで僕に取り憑いていた「音楽」という悪魔が、どこかに逃げ去って行った気がした。
初めは清々していたけど、その脱力感は、ただの虚無感だということがすぐに分かった。
人間の心なんて、最終的には単純なんだと分かった。
たまねぎの皮をむくように、一つ一つ丁寧にはいでいったら、最終的に残った感情はすごくシンプル。

そう、結局は、「大好き」なんだ。

大好きなのに、努力しても振り向いてくれないから、「好き」が「憎い」に変わってしまった。
愛というコインの裏にはいつも憎しみという強いエネルギーが存在しているのだ。
それがコイントスのように、入れ替わってしまうような事が、僕にも起きていた。

「このままじゃいけない」

そう思って、やっぱりピアノを弾いてみる事にした。
一度だけ、一度だけ挑戦してみよう。
そう思った。
そして、レッスンへと出かけたある日、僕は「舟歌」と出逢う。
けして素晴らしい演奏ではなかったかもしれない。
でも、この曲が持っていた、あの「切ない笑顔」。
ショパンが作った曲だということすらその頃は分からなかったけれど、
でも、舟歌の旋律は、孤独だった僕を抱きしめてくれるようだった。
暖かい波の伴奏は、僕をゆっくりとどこかへ運んでくれるようだった。
ロマンティックに、ドラマティックに、繊細に、優しく、僕と一緒に泣いてくれているようだった。

僕は、レッスンを待たずに、独り夕暮れ時の街を歩きに行ってしまった。

先生は心配したことだろう。
でも、僕にはそうするしかなかった。
泣いてるところなんて、誰にも見られたくなかったし、独りになりたかった。

そして、あの美しい曲をいつか弾くんだ、という大義のもとに、もう一度歩き出した。

あの曲は何の曲だったか、必死で探し回った。
でも、わからなかった。
僕の最愛の舟歌は、まだ僕のもとには訪れてはくれなかった。
だけど、絶対に探し出すという気持ちが、僕を歩かせた。
もう、命さえ惜しくないと思った。
だから、歩くのではなく、走り続けた。

次のコンクールまで、一日12時間は練習していただろう。
中学も殆ど行かずに、ただただ、ひたすら何かに取り憑かれているように練習した。
そして、次の年、中学2年生の時の同じコンクールで、優勝した。

でも、悪魔に心を売ったように練習した僕には、何も残らなかった。

第1位  清塚信也

という張り紙を見ても、何とも思わなかった。
皆がその張り紙をみて喜んだり怒ったり、笑ったり泣いたりしている。
予選落ちの落ちこぼれだった僕からしてみれば、
皆が一心に僕の名前を見ている光景が不思議だったけれど、そこに「感動」はなかった。
バカらしくて、笑いさえこみ上げてきた。
大の大人たちが、こんなかみっぺら一枚で、何をしているのだろうか。

「茶番だ」

そう呟いたのをよく覚えている。
それから、僕は色々なコンクールやオーディションで優勝や入賞を繰り返した。
悪魔に心を売って得た力は、思いのほか強かった。
「音楽に心がこもっていなくても、人が喜ぶ演奏をすればそれでいい」
コンクールという戦場が僕に教えてくれた言葉だ。

そんな日々を繰り返していたある日、あの、運命の「舟歌」と再会することになる。
やっと、あの曲が、僕のもとに訪れてくれるのだ。
それは、また、誰かのレッスンで弾かれていた。
あの時の感動は今でも忘れない。

あの、純粋だった頃の心が蘇ってくるようだった。
結果なんか出なくても、必死で音楽を追い求めていた時の僕。
どんなに険しい道でも、歩くための理由が、「好きだから」というだけで充分だったあの頃。

僕は、舟歌を何年かぶりに聴いて、いや、その曲がショパンの「舟歌」という曲だった事を知って、
優しい気持ちになった。

でも、心が痛かった。
まるで、昔の恋人にバッタリ出会って、今の廃れてしまった自分を見せたくないような気持ちになった。

そうだ。
ずっと忘れていた。
この曲が弾きたくて、僕は悪魔に心を売り飛ばしてしまったんだ。
今まで、何をやっていたのだろう。
何のために、僕は歩き続けてきたのだろう。

戦場から帰ってきたら、音楽という恋人は違う誰かのもとに行ってしまっていて、そのショックから、
僕は何のために戦って還って来たのか、忘れていた。

放心状態のまま家に帰って、何かを思い出したかのように、
いや、あの時の続きをやっているように、大なきしたことを覚えている。
気付けば、舟歌の楽譜は、ずっと僕のもとにあった。
やたらと難しそうに見えるから、この楽譜があの曲だとは想像もできなかった。
でも、舟歌は、ずっと僕の傍にいてくれたんだ。
大切なものを追いかけることに夢中になりすぎて、本当に大切なものがすぐ傍にいることに、
気付けなかった。

僕は落胆した。

自分が情けなかった。

でも、一音ずつ、ゆっくり、はじめて、この「舟歌」に触れてみた。

それは、宝石の数々が鍵盤から零れ落ちるかのように、ステキな曲だった。

その後、すぐに先生に「舟歌をやりたい」と言ったが、「まだ早い」という理由で却下された。
でも、僕を止めるものは何もなかった。
先生に教えられてたまるものか。
と、すぐに、僕は舟歌を練習し始めた。

離れていったと思って恨んでいた舟歌。
だけど、舟歌の楽譜は、いつも傍で僕を見守っててくれた。

そんな事実を知って、その愛しい楽譜を手にしたとき、僕は、はっきりとあの感情を抱いていた。

「切なく、笑う」

ほのかに笑っているけれど、それは、悲しみや苦しみ、全ての切なさを「受け入れた」信号。
けして楽しいからではない。
でも、人生で一番自分が優しい気持ちになれた気がした。
それまでの、あの中一の落選から、全てが狂った瞬間からの出来事が、走馬灯のように駆け巡った。
そして、受け入れた。
そして、僕は、笑った。

    「ごめんね、もう、大丈夫だよ。僕は戻った。」

そんな気持ちだった。
そんな、優しい、気持ちだった・・・。


ショパンは、一体死に際に何を思ってこの曲を書き上げたのだろう。
自分では殆ど弾けない状態まで身体は弱っていたのに。
どうして、こんなに優しい曲がかけたのだろう。
いや、その応えはもう出ている。
あのときの、僕の気持ちは、それに近いものだったかもしれない。
ただ、それは、言葉ではあまりに無力なほど、繊細で、神秘的な心の状態だということは確かだ。

あれから10年以上経って、僕は舟歌を弾き続けています。

    「いいんだよ。思い切り泣きなさい」

そんな気持ちで、いつも弾いています。
そして、祈っています。


「今度は、どうか、僕の舟歌によって、誰かが救われますように」

と。

2007.06.26

質問DIARY

僕は休日にぼーっとするのが苦手です。
昔から、同じ場所に留まっているのがすごく苦手で、
小学生の頃は、5分と自分の席についていませんでした。
もちろん、通信簿にはいつも「席につきましょう」が書かれていました。
でも、ぼーっと河川敷に座ってる人なんかを見ると、結構憧れたりします。
「ぼーっとできて、いいなぁ・・・」

でも、音楽家にとってのリラックスは、結構重要な問題になってきます。
なので、日頃から色々な人に「どんなストレスの解消の仕方をしてますか?」「リラックスの仕方は?」
などと訊いてまわっています。

今日はブログで尋ねてみよーっと。^^
皆さんはどんなリラックスの仕方をしていますか?

2007.06.22

愛が壊れるとき

ショパンとサンド
音楽家と小説家
女性っぽい男と男装した男勝りな女
一見不釣合いなこの2人は、恋人同士だった・・・


ショパンがパリに移ると、そのミステリアスな気品がご婦人方に大うけして、一躍人気者となる。
ショパンが活躍していた社交界の中には、
ゲーテ、ドラクロワ、バルザック、リスト、シューマン夫妻などなど、
後に何百年も名を残すような大物が揃っていた。
その中でも一際輝いていたのだから、やはりショパンの才能はすごい。

あるパーティでショパンはサンドと一緒になる。
そして2人は出会った。
その時ショパンは「男装趣味の不気味な女がいた」と親友に手紙を送っている。
しかし、2人はやがて惹かれあう運命にある。
男勝りで有名なサンドも、ショパンと2人になると1人の女性。
彼の結核を優しく包み込むように看病し、彼女の連れていた2人の子供と供に旅行などに出かける。

しかし、療養と思って出かけたマヨルカ島がよくなかった。

ショパンの弱っている身体には、マヨルカの気候は湿気も含めて全てが裏目に出る。
そして、パリほど教養のなかった島住民たちは、彼の結核を煙たがっていた。
一度寝たベッドを必ず買い取らなくてはいけない始末。
お金も段々と減ってゆき、ショパンは半ば狂気になっていた。
そこで作曲したのが「雨だれ」である。
一見綺麗な曲だが、本当は、狂気的なエネルギーの働いた、恐ろしい曲だ。
そして、サンドの2人の子供もショパンには懐かず、二人の仲を険悪なものにしていた。

それでも、サンドはショパンを優しく包んでいた。
ショパンも、音楽によって、その愛に応えていた。
2人の愛は永遠かと思われた・・・

しかし、マヨルカから帰ってきて間もなく、2人の距離が段々と広がっていってしまう。
サンドはフランスの革命に興味を持ち始め、
ショパンは相変わらずこの世で一番美しいノクターンやマズルカを作っていた。
そんな2人の距離は広がっていく。
そして、やがては破局へと進んでいってしまう。。。

2人ともすごく頭のキレる人だし、人の心をちゃんと理解している人だった。
だから、2人にはきっと「破局」という道が見えていたと思う。
だけど、2人はそれを阻止しなかった。
できなかったのであろうか?しなかったのであろうか?
でも、ショパンにしてもサンドにしても、
「このタイミングで意地を張ってしまったらもう離れ離れになってしまうだろうな」
という瞬間があったに違いない。
その時、あと一歩踏み出せれば、破局にはならなかったかもしれない。
それでも、2人とも、近寄らなかった。
歩み寄らなかった。

ショパンは後で後悔したのだろうか?

僕は、ショパンのようにはなりたくない。
もし、今自分の一歩で、未来が変わるのならば、それが解っているのであれば、
僕は何が何でも「一歩」を踏み出したい。
守るべきものは、プライドか未来か。
これはそれぞれの価値観に委ねられているかもしれません。

ショパンはサンドと破局してから、急激に身体の具合を悪化させます。
そして、あっという間に亡くなってしまう。
最後は、170センチの身長に50キロも満たない体重だったそうです。

マヨルカ島で夕日を見ながら、サンドの入れてくれたホットチョコレートを飲みつつ、
プレリュードやノクターンをピアノで弾く。
お互いの背中を合わせながら、もたれあいながら、至福の時間を味わったのでしょう。
そんな思い出を思い出しながら、独り孤独と闘いながら死にゆくショパンの最期。
それを知っていて、すぐ近くにいるのに、絶対に会いに来ないサンド。
結局、ショパンのお葬式にすら、顔を見せなかったそうです。

何が2人をそうまで引き離したのか。

僕には解りません。
でも、自分から動けば、それが道となる「一歩」。
それを踏み出す事、それが大切なのだと教えて貰いました。

フレデリク・フランソワ・ショパン。

ポーランドのワルシャワが生んだ、人類の宝。
僕は、あなたが出来なかった一歩を踏み出してみようと思います。
そして、貴方が最期に、病気のせいで出来なくなったコンサートをたくさんしようと思います。
マズルカや舟歌、ポロネーズやソナタ、貴方が弾けなかった曲たちを、僕は受け継ごうと思います。

孤独に死にゆくとき、あなたは何を考えたのでしょうか。

自身の死期を悟った時、あなたにはどんな音楽があったのでしょうか。

それを、僕はこれからゆっくりと考えていくことにします。

幸せにも、それを、一緒に考えてくれる方々が、僕の周りにはたくさんいるのです。

それもこれも、あなたが美しい音を残してくれたおかげなのです。

ありがとう、ショパンさん。

あなたの美しい曲を、安らかにお聴き下さい。

2007.06.19

人生の道しるべ

過去を振り返るという事は、悪い事じゃない。

僕はそう思う。
尊敬するイチロー選手は、「僕は、今はまだ過去の栄光には振り返らない」と、言っていた。
振り返るのは、現役を引退してからだそうだ。
うん、これにはとっても共感できる。
僕も、コンクールで賞を獲ったり、大きなコンサートを成功させても、その功績に浸るという事はしない。
それらは、その行事が終わったときから、もう既に僕の中で「過去」になってるから。

でも、そういう意味じゃなくて、良い思い出の数々を思い出すという事は、僕はいいことだと思う。
辛かったことや、今でも引きずっているような悪い思い出を思い出すのも、時にはいいかな、とも思う。
それを、最低限自分が壊れてしまわないくらい受け止められているならば。
そういう思い出を思い出して、これから前へと進む力にしようとしているならば、
それは「衰退」とは言わないのではないでしょうか。

僕にとっての思い出は、いつも音楽と供にあります。

大体がクラシックだけれど、中にはジャズやポップスも。
色々な音楽が、僕の思い出を鮮明に思い出すことを手助けしてくれます。
ただの記憶としては中々思い出せないことも、その時聞いていた音楽が流れる事によって、
その時の香りや肌触りまで思い出せるようになる。

そう、言わば、音楽は、心の中の日記帳のような役割。

家族で一緒に行った旅行。車でかかっていた音楽。
運動会で流れていた曲。思い出の場所にいつもかかっていたあの曲。
本当に、世界は音楽で満ち溢れている。

今でも、仕事や人ごみに疲れて心が塞いでしまったときに、ふとそういう音楽を聴くと、
その時の幸せな気分に戻れる。
「あぁ、音楽にはこんな力があるんだ」そう思える。

だから、どんな音楽でもいい、幸せな時間に音楽を流してあげてください。
幸せな時間に流す事によって、その音楽には「幸せな条件付け」がされるのです。
それを、いつか道に迷ったときの自分や大切なあの人のために、ストックしておいてくださいね。

音楽家は、夢を売る商売なんかじゃないのかもしれない。
音楽家は、幸せな感覚を思い起こさせるスイッチみたいなものかもしれない。
少なくとも僕は、そうありたい。

感動する心。
それは皆様のお力です。
けして僕の力だけじゃない。
僕の力だけでは足りません。
どうか、皆様自身が、前へ進むために、道しるべとなっている音楽を思い出してください。

前進しようとしない者が、追憶の日々に浸っても仕方ありません。
薬だって、体内の麻薬作用だって、「ケガや病気を治すため」に使うから、正等なのです。
ただ、浸るだけに使ってはいけない。

今日の僕の道しるべは、ショパンのバラード1番。
美しくも切ないメロディーが、僕を前へと進ませてくれます。
29日の藤沢の演奏会で弾く予定。
是非僕と一緒に体感して下さいね。

後ろを振り返ったからって、あなたは弱い人じゃない。
いや、弱い人だからこそ、「勇気」という力を得る権利を持っているのです。
少し休んだら、ちょっとだけでも、前へ進んでみましょう。^^

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