なつやすみ 2
【夏休みは妖怪に気をつけて…】
僕は割に睡眠を大切にする方じゃない。
中学生の頃から毎朝4時に起きて桐朋学園に忍び込んでは練習をしていた。
8時頃になると、するするする〜っと練習室からいなくなって、
中学校に行くなり、そのままレッスンに行ったりなんてしていた。
レッスンに行くにしろ、学校へ行くにしろ、
また家に帰ってから練習をしていたので、
結局なんだかんだと夜中の1時くらいまでは眠れない(勿論ゲームもする時間を取っている)。
よって毎日大体2〜3時間の睡眠でずっと過ごしていた。
今思うと、かなりタフである。
それを20歳くらいまで続けていたもんだから、
今もクセになってしまっていて朝方起きたりする事がある。
そういう時は、何だか練習に行かなきゃいけない気がして、ソワソワしてしまう。
でも、勿論今はそんな朝早くからピアノの練習はしない。
するならせいぜいツーリングやドライブかゲームくらいだ。
良い人生を送るようになったものだとつくづく思う。
夏休みの何もない一日。
僕は朝の6時に起きてしまった。
こうなるともうとことん眠れない。
昔のクセで起きてしまったのだ。
心はソワソワするし、頭も段々と冴えてくる。
「しょうがないなぁ」とつぶやきながら、僕は仕方なく玄関先へ出てみた。
新鮮な空気がまだそこには漂っていて、
それは何か神秘的な生き物たちが今まで夏祭りでもやっていたかのような雰囲気だった。
僕に驚いたのか、僕を歓迎しているのか、僕を馬鹿にしているのか解らないけれど、
鳥たちがいっせいにどこかで色んな声で鳴き始めた。
僕は何だか世界に一人取り残されてしまったかのように感じた。
でも、こういう孤独って素敵だ。
僕はその孤独を連れてどこか遠くへ行こうと思った。
目の前にはバイクと車。
よく考えたあげく、車にすることにした。
もう、3時間は走っただろうか。
途中まで高速道路を使い、今は一般道の山道を走っている。
くねくねとどこまでも続くヘアピンカーブ。
時折対向車がすごいスピードで突っ込んでくるが、僕の車に驚いて急ブレーキをかける。
一体ここはどこだろう?
ナビは消しているのでわからない。
ただ、東京より西の方角だろうという事しかわからない。
僕は割に地理には強い方だけど、それでもここまで山道でカーブが続くと分からなくなってしまう。
まぁいいさ、どうせあてもない旅なんだ。
ここまま遠くへ行こう。
帰りはナビをつけて検索して帰ればいいんだ。
…となんとなく一度ナビをつけてみた。
が、しかし、ナビは正確な自らの位置を失っていた。
僕が走っているのは「海」のど真ん中になっていて、画面全体で水色の海を表していた。
そんなはずはない。
山道で狂ったのか?
まぁ、こういう事もよくある。
ビルとか地下駐車場とかにいると時々自分の位置を見失う事がある。
でも、すぐ戻る。
すぐに元通りに…
もう家を出てから5時間がすぎただろうか、ナビは海から一向に出ない。
僕は海にいることになっている。
どうしたことか。
僕は車を停めてじっとナビを睨み付けているのだが、ナビは海のど真ん中で停止している。
試しにちょっとだけ車を動かしてみた。
すると、ナビの中で少しだけ矢印が動いた。
ナビはちゃんと仕事をしていますと言わんばかりに正確に僕の動きとシンクロした。
家への帰り道を検索したが、海から画面が出ることはなかった。
もう、オーディオボタンを押そうが、メニューボタンを押そうが、
ナビは「海」から変わらなくなってしまっていた。
あくまで「海」なのだ。
僕は今、海にいることになっている。
「そうか、わかったよ」と僕はナビに言い捨てて、車を降りた。
車の鍵をかけ、財布だけ持って山道を歩いてみた。
2時間、3時間、歩いても歩いても山は続いた。
途中から、道すらなくなっていった。
山道が獣道になってしまった。
これは夢なのだろうか?
僕は古いやり方だけど、ほっぺたをつねってみた。
…痛かった。
もうすっかり夕暮れ時になった。
朝早く出てきたのに、まだ一食も食べてないし、一口も飲んでいない。
ヒグラシが辺り一面にいるらしく、耳が痛いほどの鳴き声を響かせている。
どうしたことか。
ここで夜を迎えるわけにはいかんぞ。
携帯は家に置いてきているし、公衆電話なんて当然見あたらない。
あるのは古ぼけた旅館風の…
家だ!
家があった。
まだ遠くて見えないけれど、看板も立っている。
料亭とか旅館とかかな?
僕はそこへ小走りに近づいていった。
身も心もボロボロで中々うまく走れなかったが、それでも走り続けた。
「すみません!」どんどんとドアを叩く。
中から綺麗な女性が出てくる。
着物を着ていて、真っ赤な口紅をつけている。
背は僕より少し低いくらいで、鼻筋の通っている日本美人だった。
「すみません、道に迷ってしまいまして」と僕は急な訪問を詫びた。
「いえいえ、ここらで人を見かけるのも随分と懐かしゅうございます、
さぞお疲れの事でしょうから、まずはお上がりになられてから、
それから地図を見るなり、ご家族にご連絡なさるなり、ご自由になさってください」
とその着物美人は狐のようなほっそりとした目の笑顔で淡々と喋った。
僕はいくつかその着物美人のいった事が気になったが、
まぁこんな事態だからしょうがないと思い、上がらせて貰った。
そこは茶屋だった。
中は薄暗く、お香の香りがした。
必要以上に広く感じ、夏とは思えないほど乾燥していて肌寒かった。
着物美人は僕を中庭の方に案内した。
中庭にオープンテラスを作る形でひとつのテーブルと椅子が用意されていた。
あれ? 普通、席って一人用に作られるかな…? 茶屋なのに。
まぁいいか。
携帯を置いてきたが財布を持ってきたのは正解だった。
財布には免許証が入っているからね。
暫くすると、着物美人が僕の方に歩いてきた。
薄暗くて顔がよく見えない。
カウンターの向こうにいて、そのカウンターからは青白い光が出ていて
それが逆光になってまた見え難くなっている。
「うちのシュークリーム、とてもおいしいんですよ。おひとつ如何ですか?
今日は大変な一日だったでしょうから、差し上げますよ」
「よろしいですか?それじゃあお言葉に甘えて…」
と、僕はシュークリームを見た。
それは、あまりにもおいしそうなシュークリームだった。
甘い物は好きじゃない方なのに、どうしてだろうか。
あまりにもおいしそうなシュークリームだ。
あまりにも。
僕はそのあまりにもおいしそうなシュークリームから目が離せなくなっていたが、
何だか気味悪くなって急いで目線をそらした。
「あ、あの、そう、ここらへんって良いところですね」
焦った風になってしまった。
「そうですか?迷って大変な思いをなさったのに?」
沈黙が流れた。
空気が乾いていて、辺りがほこりっぽく感じた。
のどがざらざらとして気持ち悪かった。
さっきまであんなに涼しかったのに、いつしかじめじめとしている。
ぬるぬるとした汗が僕の額からあごにかけてゆっくりと落ちていく。
なめくじが這っているかのようだ。
「あまり…」と着物美女は言った。
「あまり、嘘は仰らない方が良いですよ。ここらは嘘の嫌いな狐様という神様が沢山いらっしゃりますから…」
着物美女は湯気の出ている湯飲みをどこからかいつの間にか用意していた。
「嘘をつきすぎるとね、ここから出られなくなってしまうのですよ。私みたいにね…」
僕は後ずさりした。
これが、夢であって欲しいと、強く思った。