妄想と現実のあいだ
【時間よ止まれ、君は美しい…ファウストはそう言ってメフィストフェーレスに魂を取られそうになった】
「更に、昨夜、日本海に向けて1発ミサイルを発射しました」
普段TVを殆ど観ない僕は、昼間コーヒーを飲みながらたまたま点けたニュースでその事実を知った。
昨夜僕は全くと言って良いほど寝付けなかった。
なぜだか、深い森の奥に漂う靄のような、妖しい雲が掛かった月が気になって仕方なかったのだ。
月は今にも風に煽られて折れそうなくらい鋭利だった。
「こんなに細い鋭い月って今まで見たことあっただろうか」
2階の窓から永遠に靄の掛かった細長い月を眺め続け、ついには眠れなくなってしまった。
眠れないので、その日の昼間の事を思い出してみた。
ピアノを6時間練習すると、腕も重くなってきたし、まだお昼過ぎだったので車を走らせた。
ナビも消して、携帯も置いて、どうでも良い格好で、家を飛び出した。
僕は自由だ。僕は自由だ。そう言い聞かせて。
気がつくと八王子まで来ていた。
八王子を過ぎると、自分でも何をやりたくてこんな事をしているのか解らなくなって来た。
その時、何故だか笑いが止まらなかった。
全く知らない街に辿り着いた。
オープンカフェがあったので、近くの駐車場に車を停めて、外側の席についた。
僕はそれから5時間近くずっと通行人を見ていた。
色んな人がいるな。
一番印象に残っているのは、幾何学模様のような柄のシャツを着たお婆さんだった。
お婆さんその人よりは、そのシャツがそのお婆さんに渡る経緯について特に考えた。
誰かがくれたのだろうか?
自分で買ったのだろうか?
シャツは黒地に銀色のラインで模様が付けられている。
そういうシャツを好んで手に取るのだろうか?
お婆さんはあるいは数学的な美学を心の奥底に秘めているのかもしれない。
誰も知らない深海に沈む海賊船のように。
お婆さんは真っ直ぐ歩く先を見据えて歩いていた。
他には何も見えない…といったように。
そういう姿勢を見ると、僕はここにいないんじゃないか…という錯覚に陥ってくる。
僕はいないんじゃないか。本当は、誰かの影なんじゃないか。
知らない土地でカフェに入ってぼーっとすると、孤独と背中合わせだからか、観察するものがすごくリアルに感じる。
その結果、自分がリアルじゃなく感じる。
……そういう感覚って僕は大好きだ。
2階の窓から永遠に細長い月を見続けてもう朝方になる。
月と僕との間には何層かになった妖しい雲がとても速い速度で流れている。
まるで空と海が逆転してしまったかのようにも見える。
不思議な光景だった。
美しくもあり、妖しくもあり、そして、何とも言えない不安や緊張にも似た感覚もあった。
僕がこうしている間にも、ミサイルは日本海にむけてぐんぐんとスピードを上げている。
僕らは何も知らない。
僕らはとても無力だ。
この細長い月を合図に、影の悪魔たちがそっと動き出して悪さをしていても、僕たちは何も知らない。
とても無力なんだ。
「更に、昨夜、日本海に向けて1発ミサイルを発射しました」
それがリアルな事にはどうしても思えなかった。