清塚信也 OFFICIAL BLOG: DIARY

DIARY

2008.09.11

夕暮れカクテル

9月11日。
今日は、残暑の暑さと秋の予感が混ざり合い、
この季節独特の涼しさをかもし出す夕方に出逢えた。

僕はお風呂で寝てしまう事がよくある。
多くの場合、バスタブの湯はなるべく長く浸かっていられるために
水が少しだけ温まったくらいの比較的冷ためな温度に設定しているから、
そのまま寝てしまうと起きたときには殆ど水になっている。
寒さに起こされて急いでお湯を足す。
すると、水が生命を徐々に取り戻すかのように少しずつ温まる。
僕はそれを温かい血が流れてくるかのように感じる。
それはとても心地よい瞬間だ。
無機的なものでなく、温かい魂を持った生命に包まれている感覚。
秋に移り変わる季節には、それを連想させるひとときがある。
これは、冬が春に移り変わる時にはない、この季節独特のもので、僕にとってはとても大切なひとときだ。
しかし、この時期だからといって毎夕訪れるわけではない。
だからまたその価値を高めてくれるのだが、
それでも、人生でこの夕暮れをあと何回迎えられるのかと考えると、とても切ない気持ちになった。

そう、この夕暮れには僕を切ない気持ちにさせる副作用がある。
でも、僕はそんな「切なさ」まで含めてこの夕方が好きだ。
僕は幸せを感じるとそれと共に不安を感じる。
高いところに登ったときと似ていて、
登り切った達成感や見晴らしの良い幸福感と共に、
ここから落ちてしまうかもしれないという不安にも襲われる。
こんな事なら、はじめから登らなければ良かったとさえ思うようになる。
だから、僕は切なさが好きだ。
切ない時はそれ以下に下がる実感があまりない。
だから、安心した時間を過ごせる。
余計な緊張がないから、風の音や自分が生きている時間の流れをすんなりと受け入れる事が出来る。
だからといって「悲しい」や「虚しい」という感じではない。
ネガティブではないのだ。
「寂しい」とは少し似ているかもしれないが、
ネガティブでもポジティブでもない、「自然」な状態だと言える。
余計な装飾品を外し、裸のままで生きているような、そんな感覚だ。
心が軽くなって色んな事を考えられるようになる。
切なさには、そんな魅力があるのだ。

コーヒーを飲みながら読書をしている僕の前を、無数の通行人が通り過ぎる。
全員が前を向いて、前に向かって進んでいる。
どこにいくのだろう。
どこにいくのだろう。
どこにいくのだろう。

いま「わたしが死んでも世界は動く」という題名の曲を作曲している。
妙にその曲名と今の状況がシンクロして思わずため息交じりに笑みがこぼれる。
眼を閉じてみると、何故か僕の前に初老の山羊がいた。
山羊は僕に話しかけてきた。
「君は自由なのかね」
そう言うと山羊は右頬だけを動かして笑った。
笑う度に「シュイッシュイッシュイッシュイ」と歯の隙間から息がこぼれた。
僕は怖くなって急いで眼を開けた。
相変わらず通行人が僕の前を素通りして行く。
こうして観ていると、全ての人に夜の森のような闇が付きまとっている気がしてくる。
僕は自由なのだろうか。
今、僕は、自由なのだろうか。

夏の終わりと秋の始まりの夕暮れカクテルは、夜という終わりを迎えようとしている。
こんな時は散歩に限る。
立ち止まらないで、少しずつ大地を踏みしめるのだ。
切なさをよく味わいながら、噛みしめるように、しっかりと、歩くのだ。
僕たちは、生まれながらにして、自由なはずなんだ。

2008.07.12

夜明けDIARY

四国から飛行機で東京に帰る。
今丁度飛行機が飛び立とうと滑走路を加速している。
すごい音をたてて、あっという間に速度を上げる。
僕はフィガロの結婚の序曲を頭でなぞっている時のようにワクワクした。
そして、飛行機は状態をななめにして夕暮れの空に向けて飛び立った。
風をきり、雲を突き出て雲より上へ。
下には雲の海があり、それはまるできちんと耕された畑に雪が降った後のようになっていた。
パイロットはどんな気持ちだろう?
万が一にでも、この飛行機に乗っている全ての命が自分のミスによって消滅してしまうかもしれない。
そんなプレッシャーをパイロット達はどうやって受け止めるのだろう。
考えないようにする訓練をするのだろうか、それとも考えても平常心でいられる訓練をするのだろうか。
僕がピアノを弾く時は後者だ。
緊張をしないようにと思っていると、結局裏切られて緊張する。こうなると、むしろ予定外に緊張してしまったことに焦って緊張以上に「どうしよう」と思ってしまうから困ったものだ。
だから、緊張してもいつもと同じ事を考えられるように普段から訓練している。緊張した状態でも飛んでいかない記憶を大切に保管するのだ。
パイロットは果たしてどちらなのだろう。
常人が彼らのプレッシャーをまともに受けたら、きっと生きていけないのではないだろうか。
でも、飛行機はそんな事何でもないかのように、力強くオレンジピールのような夕暮れ空を突き進んでいる。
その姿は得意げで、気高く、少し傲慢にさえみえる。
その堂々たるマエストロの姿に僕はいつも感動する。
子供の頃からずっとこの気持ちは変わらない。
すごく感動する。涙さえ出そうになる。

飛行機が上がりきった所で右に夕暮れ、左に夜の暗闇が現れた。
ただでさえ感動していた飛行機の離陸に、その美しいグラデーションの空が現れて、僕は旅の最後に感じる独特で感傷的なあの気持ちにしっとりと浸る事が出来た。
ある程度その気持ちに浸った後で、今回の四国の旅を思い出してみる事にした。
贅沢な時間である。
旅で出逢った人、出逢った出来事、道、建物、乗り物、全てを一つずつ思い出す。
そのイマジネーションを飛行機と空が助けてくれる。
僕はそんな完璧なシチュエーションを前にドキドキしてしまう。
ポーランドの田舎で輝く一番綺麗な星をひとくち囓った気分だった。

今回の旅で新居浜というところに行った。
新居浜は何もないところだったが、のどかで潮っぽい匂いがした。
僕はなぜかこの街が気に入った。
ホテルからコンビニすら見あたらないので、少し夜の新居浜を歩いてみる事に。
道を歩いていると街灯が少ない事に気付く。
ところどころ、自分の歩いている道が見えなくなる程暗い。
気をつけて歩かないと虫を踏みつけてしまう。
僕の足下で羽虫が「よそものが来たぞ」とみんなに知らせるかのように急いで慌ただしく飛び立っていった。
やっとコンビニを見つけてビールを買ってからUターン。
同じ道を帰るのもなんなので、一本裏の道へ。
裏道は更に暗く、湿気が充満していた。
僕以外に歩いている人はいない。
すごく静かな道だ。
小さな道が交差する交差点では、誰のためでもなく、ひっそりとしかし力強く信号が青になったり黄色になったり赤になったりしていた。
そのうらぶれた信号機は、それでも革命を起こす前の英雄かのように力強さを持っていた。
僕はそんな信号機を少し立ち止まって観ていて、少し悲しい気持ちになってしまった。
「気の毒な信号くん、これからも頑張って」
そう呟いて僕はホテルに帰った。

そうこうしていると、あっという間に飛行機は羽田空港に着陸態勢。
ヨーロッパの飛行機に慣れている僕には少しものたりない短時間フライトだ。
それに、こんなに時間を短縮されてしまっては、自分がどこから帰ってきたのかよく把握出来ない。
かくして今回も、羽田空港に到着して駐車場にある車に辿り着くまで、ついさっきまで自分が四国にいた事を頭に言い聞かせなくてはいけなかった。
しかし、不思議な事に、名古屋に2時間かけて新幹線で行くより、四国から飛行機で帰ってくる2時間の方が疲れる。
これは距離の移動と疲労というのが比例するという事である。
いくらすごい乗り物があって時間を短縮出来たとしても、疲れは本来かかっていた時間と同じように、それなりに残るということだ。
今回の羽田到着はそれでも快適だった。
疲れてはいたが、その疲れも心地良いものだった。
しかし、明日の奈良を考えると少しナーバスに。
なので、それは考えないようにして、羽田空港から車を滑り出し、ゆっくりと首都高速を帰った。
法定速度を守っていると、とても邪魔そうにみんなが抜いていく。
中には車越しに睨んでいくやつもいる。
結局人間というのは、外に出るだけで誰かの迷惑になるんだな。
生きている事は、迷惑をかけているという事でもあるんだ。
そう思うとすごく悲しい気分になった。
誰もいない誰も通らない交差点にあるマンホールのような気分になった。
僕は車を止めて少し考えてみる事にした。

それでも人々はすれ違う。
どれだけ思い合おうとしても、すれ違う。
それはあの交差点にあった信号機のように生まれ持ってしまった宿命だ。
ただ、それが全てではない。
それ以上に幸せな事もある。
生きていれば、幸せも感じられる。
僕は、感動を共有したい。
出来るだけ多くの人々と、感動という一つの人間の到達点を共有したい。
僕は何度か「強制の死」をみてきた。
死にたくないのに死んでしまった人をみたのだ。
もう彼らとは感動を共有出来ない。
二度と、出来ない。
だから、生きている事を出来るだけ楽しんで、思い出を沢山作りたい。
そして、生きているうちに色々な人と感動を共有したい。
すれ違いもあるだろう。
不本意に人を傷つけたり、迷惑をかけたりしてしまうだろう。
でも、そんな事に負けてちゃいけない。
すれ違うのが宿命なら、その宿命に負けないのは運命だ。
宿る命と、運ぶ命。
宿ってしまうのは仕方がない。でも、運び方は僕ら次第だ。

僕はまたゆっくりと車を滑り出した。
法定速度を守っていると、また睨むようにして僕を追い抜く車があった。
一瞬運転手と目が合った気がした。
僕は、微笑んでみた。
これも、また人生。
すれ違うのも、僕の人生の内。
僕は車の音楽をマックザナイフに変えた。
ビールを飲んだ時のように心が軽くなった気がした。
空には夜の暗闇が重くのしかかっている。
さっきのオレンジピールのような夕暮れはその闇に押し出されてどこかへ行ってしまった。
でも、僕はその暗闇の向こう側に控えている光を知っている。
日本シリーズの優勝が決まる直前のベンチのように、光はじっとその時を待っている。
「朝だ」と思った。
僕は、その朝が来る事を知っている。
重い暗闇からは雨が降ってきた。
僕の心を浸食しようとしている悪魔の仕業に感じた。
雨がフロントガラスをポトポトと鳴らす。
その音一つずつが僕の心を攻撃した。
でも、僕はそれを受け入れる。
はねとばしてはいけない。
受け入れるのだ。
受け入れて、抱きしめて、よしよしと頭を撫でてやる。
人生では、この勇気が大切なんだ。
はねとばすか、受け入れるか、それは人の判断にそれぞれ委ねられている。
僕はもう一度微笑んでみた。
そして、もう一度旅の思い出をかき集めてみた。
羽虫も、暗闇の道も、誰もいない交差点も、信号機も、マンホールも、
全てを思い出してみた。
そして、最後にもう一度、微笑んでみた。
とても気持ちの良い雨だった。
僕が家に着く頃、車のオーディオには、Mr.Childrenの「いつでも微笑を」が流れていた。

すれ違う事もあれば、ぴったりと出逢う事もある。

宿命はその人生のルールのようなものだ。
それは変えることが出来ない。
しかし、運命は………。


最後の言葉は、あなたが決めてほしい。

2008.07.06

ありがとうの時間

今日はビストロナージュでサロンコンサートだった。
バリトンの中西兄さんと一緒だった。
兄さんの歌と、僕のソロもやった。
環ちゃんも一緒に行って、環ちゃんの書いた散文の朗読&即興もやった。
今日はとにかく「霧」が濃かった。
本当に、異常に霧が濃かった。
「サイレントヒル」というゲームを思い起こさせられた。

「運転してるとさ、女の子が飛び出て来てハンドルを思い切りきる。
 道路脇の木に激突して気を失う。
 そして、目覚めた時には街には怪物がうようよで大変な事に…」

「はいはい」と笑いながら受け流す環ちゃん。
「出た出た、妄想」と同じく笑いながら受け流す中西さん。
3人で、笑いながらコンサート帰り。
「ねえねえ、こんな夜だし、帰りに中西さんちで怖いビデオでも観ようよ〜」

とても幸せなひととき。
僕は独りではないと実感出来る時間。

「じゃあ、お休み環ちゃん」
「うん。今日も楽しかったありがとう。ちょっとビデオは怖かったけどね」
いひひひ、と独特の笑い声を残して環ちゃんは帰っていった。

確かに、ビデオ怖かった…。
僕も1人車に残されてちょっと緊張。
バックミラーなんかをちらちらと。

無事に家に着き、明日の準備を。
そして、今日一日を振り返る。
僕は元気にやっています。
沢山の愛を貰い、元気に、ピアノを弾いています。

ありがとう。

2008.07.03

弾 DAN4

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「やっと起きた?もうすぐ着くわよ」
僕は一体ここがどこでこの女性は誰なのか、まったく理解出来なかった。
「ここはどこ?私はだあれ?って顔してるよ」
と女性は言い、悪戯に笑った。
景色が流れている。
女性はハンドルを握り、丁寧にスムーズに運転をしている。
ここはどうやら車の中らしい。
しかも、かなりの高級車だ。
AT車なのだが、運転席の左側にシフトがない。
どこでシフトチェンジするのか不思議だが、とにかくあるべき場所にはない。
かなり近代的な車なのだろう。
木目づくりの高級なインテリアのような車内。
広々としたファーストクラス級のシート。
それを運転する女性は、それに負けずに高級だった。
アクセサリーも、しゃべり方、運転の仕方さえも、彼女に関する全ての品格が一流だった。
だからといって堅苦しい雰囲気もなく、本人は高級さなんて意識もしていないようだった。
女性からはほんのりと甘酸っぱい香りがして、僕はとても心地よかった。
「あの」と僕は言った。「全然覚えてないんです」
女性は笑った。
「飲み過ぎよ。社長が無理させるからね。ごめんね。疲れているのに」
僕はお酒を飲んだのか。
確かにお酒にはあまり強くないが、これまでお酒を飲んで記憶がなくなった事は一度もない。
相当飲んでしまったのだろう。
「あなたは社長と飲んでいて酔いつぶれたのよ。私は社長に言われてあなたと社長が男二人で飲んでいたところに駆けつけて、あなたを救出したというワケ。私はあの社長の秘書よ」
女性は右ウィンカーを出し、ちゃんと右ミラーを見た後で目視してから右折レーンに入った。
まるで教習所の教官のように丁寧な運転だった。
「今はあなたのおうちに向かって走っているところよ。安心して、誘拐したりしないから」
女性はまた悪戯に笑った。
僕はこの女性のその笑い方が好きだった。
大げさでなく自然だけれど、そこにはちゃんとした感情の宇宙を感じられた。
「すみません。ご迷惑かけて」
と僕は言った。
「いいのよ。どうせ私も帰るところだったし、方向も似てるし」
と言って女性は前髪を後ろにやった。
「ところで、今日のコンサート、良かったわ」
こんさーと?
僕は今日ピアノを弾いたのか?
「まさかそれまで覚えてないの?」
女性は僕の顔をしみじみと見ている。
僕は困った表情を浮かべる。
「呆れた。あんな大きなコンサートを終えた直後にそれを覚えていないなんて」
女性は今度は笑わないで悪戯な顔をした。
そんな表情も良かった。
「何百人の前でピアノを披露するなんて、人生でそうあることじゃないのよ。そりゃ、あなたはピアニストだから飽き飽きするほどそういう事してるかもしれないけれど、お酒を飲んだからってその事を忘れるとは信じられないわ。あなたも相当の大物ね」
そう言われてやっと僕はさっきまでピアノを弾いていた事を思いだした。
弾というシリーズの第1夜だったのだ。
第2夜、第3夜と今年中に後2回あるシリーズ。
今日はその第1夜だった。
「ねえ、ああいう所でピアノを弾くって、気持ちいいんでしょう?」
「気持ち悪くはないですね」
「でもね、あなたの音はどこか寂しい感じがするわよ」
僕は何も言えなかった。
批判されているのか感想を言われているのかが解らなかった。
しばしの沈黙があり、彼女がその沈黙を壊す。
「なんだか、あなたの音には悲しみ以上に悲しみを感じるのよ。何というか、言葉にするのは難しいけれど…」
「よく言われます。僕の音は孤独だとか悲しいだとかって」
そんなつもりはなかったのだけど、言ってみて何となく僕が怒った感じのニュアンスになってしまった。
「ねえ、怒らないでね。私はそんなあなたの音が好きよ。でも、ちょっと心配になってしまうの。何だか、あなたとはもう二度と会えないような、そんな宿命的な悲しさを感じるのよ」
「怒ってなんかいないですよ。僕自身もそういう孤独な感じの音が好きです。だから、それは僕の理想に近い音だとも言えますね」
何となく、その会話を最後に僕たちには重い沈黙が訪れた。
「でも」と僕は言った。「僕の音が孤独で悲しいのには、ワケがあるんです」
彼女は眉をぴくりと上げて僕の話の続きを促した。
「僕の人生そのものが孤独だからです」
彼女はそれをきいて少し微笑んだ。
「あなたにはあんなに素敵なファンが沢山いるじゃない」
「それはそうです。でも、僕の人生は二つあるんです」
「二つ?」
「そうです。僕は、目を瞑ると、駅にいるんです。それがもう一つの人生です」
「ごめんなさい。私頭が悪いから、よく理解できないわ」
僕はこの話を一度もしたことがない。
まだ酔っているのだろうか?
まぁいい。
そう、とにかく僕にはもう1人の僕がいる。
もう一つの人生がある。
そこでの僕は駅のベンチに座っている。
ただただ、じっと座っているだけだ。
「死」という列車を待っている。
子供の頃、いじめによって酷い目に遭ってから、そこでの僕は精神の死を迎えた。
後は体が死ぬのを待つだけという状態だ。
外の世界に恐怖心を持ち、人間社会に対して嫌悪感を持っている。
目を瞑ると、いつでも僕はその世界の僕になれる。
「なるほど」と女性は言った。「あなたはピアニストという華々しい生活スタイルを持ちながら、その一方では、もう生に希望を持つのを止めた世捨て人のようなあなたもいるのね」
「そうです。しかも、そのもう一つの人生は幻想でも想像でもなく、本当にそこにあるんです」
女性はただじっと僕の話の続きを待っていた。
この人は沈黙によって会話の出来る人だと思った。
「だから、僕は時々どっちが本当の僕の人生かわからなくなってしまいます。つまり、二つの人生は同時進行しているけれど、僕は1人なんです」
「僕は1人でその二つの人生を行ったり来たりしている。だから、僕が選べるんです。どっちがリアルな人生か、僕が選べる。」
「メタファーとして、よね?」
女性はデリケートな口調にシフトチェンジしたようだ。
僕の心の核の部分を話していると察知して傷つけないようにしているのだろう。
「違います。これは全て実際的な話です。僕は、本当にそのもう一つの人生に飛ぶ事が出来ます」
「じゃあ、あっちの人生に飛んじゃったあなたはここではどうなるのよ?」
「まさか、いきなりピカンって消えちゃうわけじゃないでしょうね?」
僕にはそれは分からなかった。
確かに、向こうに飛んでいる時、こっちの僕はどうなっているのだろう?
僕は実際にやってみる事にした。
目瞑る。
そして、あのセミの声を思い出す。
気が遠くなる。
光が僕を包む。
全てが溶けていく。
やがて訪れる絶対的な闇。
その闇に少しだけ亀裂が入り、もう一度光が僕を包む。
そして気がつくと、そこはあの駅だ。
僕は急に全てに対してのやる気がなくなる。
何を見ても興味一つ沸かない。
無力感という宇宙だ。
まるで、精神の死のようだ。
僕は、ただただじっと、列車を待っている。
「死」という列車を。
誰の声も聴かないし、誰との輪にも入らない。

つづく

2008.06.28

弾 DAN3

深く掘れ、深く、深く掘るんだ。
僕は穴を掘り続ける。
自らの手で穴を掘り続ける。
両手の爪はほぼ無くなった。
それでも、痛みなんて覚えずに、ただ穴を掘り続ける。
ここは戦地だ。
今も敵の迫撃砲が僕らの周りに迫っている。
その迫撃砲に直撃しないためにも、穴を深く掘って、そこに隠れるのだ。
穴は既に僕が1人すっぽり入れるほど深くなった。
僕は穴を掘るのをやめて、その中に入った。
そして目を瞑り、迫撃砲が止むのを待つ。
ぎゅっと目を瞑り、現実をなるべく遠くに追いやる。
想像するのは、緑の丘だ。
白い蝶々がてふてふと風に揺らぎ、多くの草花たちは風を受けて石を投げられた水たまりの波紋のように波打つ。
牛が呻き、馬が滑走する。
しかし、僕にはそれらが上手く想像出来ない。
迫撃砲の事を忘れられない。
死ぬかもしれないという恐怖を忘れられない。
現実を逃避しようとすればするほど失敗し、結局逆に恐怖に全身を喰われてゆく。
「おい」
誰かの声がした。
「おい!」
誰かに呼ばれている。
「おい、おまえ!そこから出て敵に銃弾をあびせてやれ!早く!」
隊長の声だ。
しかし僕は穴から出られない。
体が釘で打たれたかのように穴にくっついてしまっている。
恐怖という釘だ。
僕はもう二度とここから出られないような気がした。
今穴から出て行くなんて、想像も出来ない。
辺りには相変わらず敵の迫撃砲がまき散らされているし、それに付け加え敵が一斉に銃をこっちに目がけて放っている。
周りでは、5秒に1人は味方が殺されている。
少しでも穴から頭を出せば、きっと僕の頭に風穴があく事になるだろう。
だから、僕は穴から出られない。
隊長に叱られるだろうな。
でも、僕はここで穴と同化して一生を終えるんだ。
勇気を出して敵に向かい、名誉の死をとげた仲間のようにはなれない。
僕は、ただの「穴」として生きて行かなくてはいけない。
…そんなの嫌だ。
そんなの絶対に、嫌だ。
僕は自分の体に命令した。
「穴から出ろ」と。
「お前は穴で終わる男じゃない」と。
僕は立ち上がった。
銃を両手に持ち、しっかりと立ち上がった。
しかし、辺りはすでに戦闘を終えた後だった。
嘘のように敵の銃弾と迫撃砲が止んでいる。
隊長が僕の顔を見てうんざりしているのが分かる。
「おい、おまえ。何やってんだ」
隊長はそれでも少し優しい笑顔を見せながら喋っている。器の大きな男だ。
「いいか、ここは戦場で、これは戦争だ。殺し合いだ。お前はここに来たときから、もう既に死んでいるんだ。だから、生き残ろうという望みは捨てろ。そんな希望を持つから、お前は穴から出られないんだ。一度死んだんだ。お前は、死んだんだ。二度死のうが三度死のうが、変わらない。いいか、もう一度言うぞ。お前はもう、死んだんだ」
希望を持つから死が怖い。
なるほど、と僕は思った。
生きるというのは、死なないという事なのだ。
生きるという事は、死んでいないという希望なのだ。
死を打ち消す事で生きるという概念は成立する。
しかし、戦場ではそれが通用しない。
僕は隊長の顔を見た。
言葉に出来なかったが、「よく解った」と言いたかった。
しかし、隊長の顔はゆがんでいた。
隊長の顔が雨の日の水面のようにゆらゆらと揺れ、モザイクがかかっていた。
その揺れはどんどん大きくなり、あたり一面に伸びていった。
もはや隊長だけではなく、全ての景色が揺れている。
そして、アイスクリームのようにドロドロと溶け出している。
それは壁紙が剥がれていくかのように見えた。
景色が溶けていくと、その裏側は宇宙のように暗かった。
やがて景色という景色は全て溶けて水たまりのような塊になり僕の足下に小さくなってまとまってしまった。
完璧な暗闇が僕を包む。
気が遠くなる。
暗闇の向こうから僕の名を呼ぶ声がする。
僕は大声で応える。
しかし声は届かない。
誰かが相変わらず僕の名を呼び続けている。
僕は応えるのをやめた。
そして、声のもとをめがけて走り出した。
全速力で走った。
走った。走った。走った。
走っていると、小さな光が見えてきた。
今度はそこにめがけて走った。
やがて光は近くなり、大きくなった。
僕を呼ぶ声も近くなった。
僕は光に飛び込んだ。
眩しくて目を開けていられないくらいな光が僕を包む。
そして、眠りから目覚めた。

「やっと起きた?もうすぐ着くわよ」
僕の右側で女性の声がした。

つづく

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