清塚信也 OFFICIAL BLOG: DIARY

DIARY

2007.10.19

やだな〜

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嫌だ嫌だと言うのに、
「信也、ファンを大事にするという事は嫌な事をする努力も大事よ!」
「絶対写真載せてね。あ、載せないつもりでしょ?あ〜ぁ、信也勇気がないな〜」
と、明らかに思ってもいないのに言葉巧みに僕の写真を撮るクリスティーナさん。
嫌がるから面白くなって、言葉をたたみかけてきます。

彼女僕にも勝って「どS」かもしれない…。

女性の押しには勝てません。
なので、スイスで一度限りの僕の写真です。
笑顔の裏にも迷惑そうな感じが出ているでしょう?;;
僕は元気にやっています。
沢山の激励や応援をありがとうございます!^^
明日、お陰様でやっとプレミアショーを迎える事が出来ます。
僕にとって初めての舞台上での「共同作業」。
きっと、また新しい発見がある冒険になるのだと思っています。

人生とは、冒険です。
愛とは、空気です。

2007.10.18

満場一致の法則

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【ミランダとファーディナンド。舞台とは全く違う二人の顔です。二人は僕と同い年!】


満場一致の法則というのが集団心理にはあります。
多数派の意見に押し流されたり、権力者の意見に押し流されたりして、
本当は定かではないような意見が「満場一致」で肯定されてしまう事です。
集団の中があればどこにでも生まれる心理で、皆さんも体験した事があるでしょう?
僕ら「芸術」の世界にもこれと同じ現象があります。
というか、芸術のように、多くの人に意見してもらう仕事をしていると、特にこういう心理
がよく見られます。
人の価値観が入ってくると、否定と賛成とを決めなくてはいけない時が来るからです。
今回のように大勢が関わっている舞台をやっていると、必ずといっていい程この事が問題に
なってきます。
一緒に創り上げていく内に、いつしか満場一致の法則でみんな「良い」としてきたことが、
改めて第3者に見て貰うと、「全く良くなかったり」なんて事も…

そんな集団の中で、仲間からのブーイングも顧みず、ちゃんと自分の「意見」を表せる人は
とても貴重です。
ちょっと間違えると「はみ出しがち」になりますが、それでも、実はその人がいるからこそ
良いチームとしていられる場合が殆どです。
リーダーと同等に必要な人だと思います。
こっちにきて集団の中で仕事をしてきて、
「日本の方が少し満場一致の法則が多いかな」なんて思いました。
こっちの人の方が当たり前に意見する。
ちゃんと自分を表現する。
でも、みんなその権利を等しく持っているから、ちょっとやそっと傷つくような事言われて
も、けんかになったり気まずくなったりしません。
言われても、自分も言うからね。^^
「言うね〜」なんてジョークっぽく言ったりして、とても気持ちいい雰囲気です。
ちょっと、ここは見習うべきかなとも思いましたが、日本人の国民性は、それはそれで貴重
な事もあります。
どっちが良いか、は解りませんが、時に音楽を、芸術を気付きあげて行くには、
少し「満場一致の法則」は邪魔になります。


僕は仕事柄、「ポピュラーとは何か」というのを日頃から考えています。
時にはそれと「葛藤」したりして、悩んだりもします。
「この方が一般受けするかな」「でも本当はこの音が欲しい」
そんな葛藤です。
これは別に作為的になっているのではなく、自己満足との葛藤をしているのです。
技術と感性との葛藤…とも言えるかもしれませんね。

集団というのは時に本当に怖いものです。
本当は思っていない事でも、別に自分はどうでもいい事でも、周りが言ってるからって
自分も言ってしまったり、多数派が少数派を攻撃しようとしたり…。
いじめだってそうやって始まる事が多いでしょう。
だから、集団でいじめた人の多くは、別に特に恨みとかないけど…っていう意見。
でも、その「少し」の出来心が、大変な傷を生みます。
一生忘れられない程の傷を…。

こんな事改めて僕がここに書かなくても、多くの大人達がちゃんと把握している事と思いま
すが、でも、集団で流されている時は、自分では気付かないものです。

ちょっとした気持ちだけなら、本気で思ってないなら、人の事は否定してはいけません。

そんな事、小学生でも知っています、よね。
でも、ちょっと今の日本ではその事が忘れられている気がします。
芸能人への批判、スポーツ選手への批判、色々な情報が入り乱れていますが、
本当に思ってもないのに、その事件が1ヶ月も経てば「忘れてしまう」ようなどうでもいい
ことなのに、周りと一緒になって猛烈に批判や否定をしている事はありませんか?
もちろん、プロとしてお金を貰って、色々な人からの期待を背負っている以上、彼らには
批判や否定を一身に背負わなくてはいけない義務があります。
ですが、だからといって、その周りの人に彼らを否定する権利がある、とも言えません。

否定する権利…そんなもの、初めから誰も持っていないと思います。

もちろん犯罪や罪を犯した場合は例外ですが…。
亀田くんも、朝青龍も、沢尻さんも、
自分でまいた種、と言ってしまえばそれまでですが、
改めて僕らが「攻撃」しなくてもいいでしょう、と思います。
それらの情報や集団の動きを裏で「操作」している奴がいるかもしれません。

とにかく、
一緒になって流されているより、ちょっと浮いて見えるけれど、

     「それは本当に真実ですか?」

と集団に立ち向かっていける、勇気のある貴重な存在になれた方が美しいと思います。
少なくとも僕は。
でも、芸術における「評価」というのとは違いますよ。^^
評価は決して批判ではありません。
僕らは「評価」を食べて大きくなるのです。
良い評価も、悪い評価も、とても嬉しいものです。
本気での意見ならば。

プロを甘えさせてはいけないけれど、満場一致の法則のように、集団心理に飲み込まれてし
まうような社会は、もっと危険ではないかと思います。

いじめがなくなる世の中。

僕は信じています。

2007.10.16

バランス

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僕が落ち込む時。
そんな時は沢山あるけど、中でも一番簡単に落ち込むことが出来るのは、
「自分が誰なのかわからなくなってしまった時」だ。


人の人生にはバランスがある。
左に行きすぎたから頑張って右に体制を整えた、と思えば、
今度は右に行きすぎて左に戻るための努力をしなくてはいけない。

僕は、よくこんな夢を見ます。
すぐ両隣は奈落の底で、片足分しかない細い細い道を、
              強い風に吹かれながら歩かなくてはいけない夢です。
ああいう時、どうしてまっすぐ歩く事が出来ないのかな。

でも、それは夢だけの話じゃない。
実際、「まっすぐ歩かなくてはいけない」と思って歩くと、右に左に大きく体が揺れる。
僕は、それを経験する度に「あぁ、人生とは歩くことだな」と思います。
まっすぐ歩くことが難しい。
すぐ隣にはいつも奈落の底が。
強い風が吹いていて、いつでも歩く邪魔をする。
それに吹かれて、体を大きく揺らして、それでもバランスを取りながらゆっくり歩く。
少なくとも、僕の人生はいつもそんな感じです。

僕は、僕にしか出来ないことを見つけるんだ。
それを誇りにして生きていく。

幼い頃から、僕はそんな事を思っていました。
今でもそれは変わっていない。
何か新しいものをみつけたい。
バッハやベートーヴェンが残したものをただ「再現」するのは嫌だ。
自分しか出来ないことを探すんだ。

僕はいつも、自分を冒険者だと思っています。
その「探求心」があるからこそ、やっぱり「再現」が大事だと思うこともありました。
新しいものを創る時、そこには「古いもの」という要素が沢山ある。
それは「伝統」という掛け替えのない文化であり、愛しく、美しい、人々の足跡なのです。
それを含めない「新しいもの」というのは、ただのアイディアなだけで、
人々に衝撃を与えることは出来ても、「価値」として残っていく事は出来ません。
バッハより、ベートーヴェンより、何百年も後に生まれて、国も違って、
生きている環境も、演奏した楽器も全く違う。
そんな僕が、「再現」しようなんて、無理なんだと気付いた事もありました。
僕が僕である限り、バッハやベートーヴェンを再現する事は出来ない。
もう、生まれてきた事で、人間というのは「新しい」ものなんだ。

探していた宝物は、「自分が生きている」という事だったのです。

僕はそうやって、色々なものをいつも探しています。
一つの答えが出た時は、それは幸福なものです。
でも、そうやって手に入れたものが、いつしか色あせてしまっていることがあります。
「こうだ!」と出した答えに留まりすぎていると、そっちに行きすぎているのです。
「自分が生きているだけで新しいんだ」と思っている内に、
いつしか、それだけになってしまって、それを盾に新しいものを探そうと歩き出さない自分
が出来てしまっているのです。
そして、ある時、危機感を覚えるのです。
「あ!これではいけない!」
それで、また新しいものを探す旅へ。
人生とは、その繰り返しです。

崖っぷちの道のように、まっすぐ歩くことは難しいのです。
「あ、このバランスだ」と良い具合を見つけたと思ってても、
知らない内にその体制は段々変わってきていて、気付いたときには落ちそうになっている。
その危機感に気付いた時、僕はいつも落ち込みます。
誰だって落ち込みますね。^^
でも、そこで歩みを止めたら、それこそ奈落の底に真っ逆さま。
絶対に歩みを止めてはいけません。
なんとしても、歩くのです。
前を向いて、徐々に、徐々に、体制を整えればいい…


今回、スイスのルツェルンという美しい湖の街で、シェイクスピアのテンペストの劇音楽を
ディレクターとして作っていられる幸福感を感じています。
僕はピアニストだから、舞台の上ではいつも「独り」。
いつもは何かと「独り」で作業をしていることが多い。
自然や霊のような、心で会話する者としか一緒に作業をしない。
でも、今回は違います。
役者さん達がいるし、クリスティーナさんも、他のスタッフもたくさんいる。
毎朝挨拶して、毎夜挨拶する。
そう、仲間がいる。

一緒に創り上げるという作業を中々体験してこなかったから、感動も人一倍感じています。
先日リハーサルで、通しの稽古をやりました。
「やっと出来上がった。」という感じです。
そして、この劇のスタッフの1人としてその場にいれた事に、本当に幸せを感じました。

思えば、僕は「普通の音楽家になりたくない!」とずっと思っていました。
「クラシックはこのままではいけない!」とも思っていました。
だから、冒険して、新たなる何かを探し求めていました。
それに執着して、執着して…
でも、それに執着し過ぎて、いつしか体制が寄り過ぎていた。
その事に、今回気付きました。
あの時、あの場所で、僕はみんなと一つになっていました。
そして、最期のプロスペローのシーンでは、自然と涙が湧き出てきました。

「もう何も要らない。僕は、ただの音楽家でいい。
           皆が一つになって感動してくれれば、それ以上何も要らない」

「僕は音楽なんだ。体がなくなったっていい。
        空気のように、愛のように、目に見えなくても、
                 確かに人に感動を与えることが出来る、
                          僕は、そんな存在になりたい。」

そう思えたのでした。
何か、一つの答えが出た気がしました。
この一ヶ月が走馬燈のように駆けめぐり、温かいものが僕の体中を駆けめぐりました。
クリスティーナさんが、
「プロスペローの最期の時、全ての人生が精算される時、たったの1分間だけど、
                          奇跡のような音楽が欲しいわ。」
そう言われたとき、僕は一晩中寝ないで作曲しました。
でも、出した答えは「静寂」という名の音楽でした。
この曲の最期にふさわしい、あの男の最期にふさわしい、そんな音楽。
それは、「無音」という世界。
勇気を出してそれをクリスティーナさんに言いました。

「僕にはこの時音を出すことが出来ない。どうか解って下さい。
               この曲が、この劇中で一番美しい音楽なのです。
                           題名は…  静寂、です…。」

音楽家として無音を曲にするのは中々勇気がいりました。
でも、クリスティーナさんは涙を浮かべて喜びました。
そして、僕をあの教会に連れて行ってくれました。

色んな色んな思い出があるけど、
それも20日で終わり。
それらが全て合わさって、僕の中でも、この劇においての「最期」が訪れる。

今回、また宝物が見つかりました。
一つの答えです。
それが、

      「僕は音楽家」

                という誇りでした。

でも、この答えをまた一つの「始まり」と考えて、僕は新たなる冒険に出かけます。
こうやって、僕はいつまでも「バランス」を取って生きていきたいなぁ。
何かに固定されることなく、自由に、大空を舞い、遙かなる冒険の旅へ。
いつでも、人の心は、自由な冒険と共にあるのです…

何かに執着しすぎて当初の目的を忘れてしまい、自分が誰だったかも忘れてしまう。
そんな時、僕は落ち込みます。
自分を見失ったからでしょう。
でも、それは新たなる冒険の始まりなのです。
だから、歩みを止めず、バランスを取りながら、少しずつ歩いて行きます。
「僕はこの世に生まれたんだ」
という誇りを忘れず、強風にも流されず、愛を忘れず、人々への感謝も忘れず…

そんな宝物の数々…。
死ぬとき、それらを眺めて人生を思い出す。
きっと、幸せな最期だろうと思う。
決して笑ってなくても、人には分からなくても、きっとそう出来る人は幸せです。

今思えば、プロスペローの最期も、そんなものだったかもしれないなぁ。

遙かなる冒険の旅は、終わることを知らない…

2007.10.12

昼下がりのカフェより

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【家の近くにこんなカフェがあったら、いいなぁ〜】


湖の畔で、夕方前の早い夕食を1人でとっていると、ついついいつもの癖が出てしまう。
僕は、行く人来る人、じーっと見入ってしまう癖がある。
よく「人間観察」というけれど、僕のはそんな格好良いものじゃない。
ただ、ひたすら、「あの人にはどんな人生が…」と想像してしまうのだ。
大いなる宇宙のように広がっている1人分の人生。
その氷山の一角でしかない「体」という情報だけで、その人生の事を想像する。
それが時にロマンティックであり、時に何かを覗いているような、ドキドキした気になる。
そして、人間が、酷く愛しい存在になる。

昨日、テンペストの通し稽古が行われました。
本番の舞台の上で、本番のそのままの形で。
最期の時、プロスペローが全ての人生を愛しく思って、ため息を一つつきます。
きっと、走馬燈のように自分や愛娘の人生を思い出していたのでしょう…。
その姿は、愛しくもあり、すこし儚くもありました。

でも、氷山の一角には見えなかった。

最期の姿は、彼の宇宙そのものでした。
全てを包み込む優しさ、それを感じました。
人は、最期の時に「解放」されるのかもしれません。
全ての呪縛から解放され、体からも解き放たれる。
それが、彼のあの大きさを出しているのかもしれません。

…と、そんな事を思っていると、店員さんが、「飲み物聞くの忘れてました」と来ました。
「あぁ、ワインと言いたいところですが、これから仕事なので、ガス入りの水で。」
ふと、現実に戻されて、心地良い秋の風が僕の首のあたりをくすぐるように過ぎ去って行く
のを感じたのでした。
湖に面したカフェ。
こんなところが、家の近くにあったら、いいなぁ。

2007.10.09

最期の時

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魔法を捨て、アリエルとも別れ、ただの男となったプロスペローは、
術が解け、正気を取り戻し、身動きも出来るようになった皆に、心から話しかけます。

プロスペロー:アロンゾー。
       ナポリの王よ。
       見るが良い、踏みにじられたミラノ大公の今の姿を。

 アロンゾー:あぁ、また私は幻覚をみているのか…。
       しかし、あなたは本当にここに存在する人間のようだ。
       もしあなたが本当にプロスペローなら、どうして生きていられたのですか?

プロスペロー:それは、そこにいるゴンザーロという慈悲深いご老体のおかげなのです。

 ゴンザーロ:あぁ、プロスペロー様。
       生きておいでで…。
       このゴンザーロ、涙が止まりませぬ。
       こうしてまたお会いできようとは、夢にも思いませんでした…。

プロスペロー:あぁ、気高きあなたのお体を、またこうして抱きしめる事が出来る…。
       それがどれだけ幸せなことか!
       あなたは、いつまでも変わらず誠実で、慈悲深いお人柄だ。
       それに比べてお前達は…

と、プロスペローはセバスチャンとアントニオの方へ歩み寄る。

プロスペロー:お前達の悪事、ここで全て暴いてもいいのだが、しかしやめておこう。
       そなたらがしっかりと改心したものと信じて、もう一度チャンスをやる。
       我が弟よ。極悪非道なお前は、決して許されるような男ではない。
       しかし、私はお前を許そう。
       そのかわり、私の国ミラノは返してもらう。
       魔法がなくとも、抵抗するなら全力で取り返すからな!わかったな!!

おどおどするアントニオとセバスチャン。
どうやら二人は負けを認めたらしい…。
そして、アロンゾーが悲しそうに話し出す。

 アロンゾー:あなたの国はあなたに返還しましょう。
       もう、私には生きる望みがないのです。
       あの嵐で、私の大切な息子ファーディナンドを亡くしてしまった…。
プロスペロー:それはお悔やみ申します。
       しかし、私も同じ苦しみを味わっています…。
 アロンゾー:あなたも同じ目に?
       それはなんと言っていいか…。
       今二人とも健全に生きていて、ナポリとミラノの統一と共に王と王女になれ
       ば、どれだけ私たちは幸せだったでしょう…。
       あぁ、神よ、もう一度だけチャンスを下さい。
       全ての過ちを悔いて、今はただ彼らの冥福を祈ることしか出来ない…。
プロスペロー:うん。
       あなたのそのお心、このミラノ大公プロスペロー、しかと受け止めました。
       あなたのそのお心と、ミラノ返還のお礼に、いいものをお見せしよう。
       さぁ、涙をぬぐって、私についてきなさい。
       奇跡にも等しいこの光景を、喜んで下さい…。

と言って、プロスペローは今いる所と隣の部屋を区切っているカーテンを開きます。
そこには、楽しくチェスをするファーディナンドとミランダがいます。
愛する者同士、輝くほどの純粋な笑顔を見せ、幸せそうにしている。
…死んだと思っていた息子、王子、ファーディナンドがそこに健在しているのです。
やがてファーディナンドも死んだと思っていた父の存在に気付きます。
驚きのあまりファーディナンドは持っているチェスの駒を落として…

ファーディナンド:父上、あのとき死んでしまったと思いこんでおりました…。
         またこうしてお会いできるとは…。
   アロンゾー:あぁ、これが幻想ならば、二度息子を失うことになる。
         ファーディナンドよ、お前は本物なのか?
         そうであれば、今私の所へ来て、抱きしめさせておくれ…。
ファーディナンド:父上、本当に良かった。
         これほどの幸せを今まで感じたことはないです…。
         さ、ミランダ、父上にご挨拶しておくれ。
         こちらはミラノ大公の娘で、私の妻となる女性です。
   アロンゾー:そうか、しかし、奇妙だろうな…。
         父である私が、娘に許しを請わなくてはいけないのだから…。
  プロスペロー:いや、ナポリの王よ。
         お互いの思い出に過ぎ去った悲しみを背負わせるのはもうよそう。
         これからは、彼らの時代だ。
         さぁ、皆で語らい合いましょう。
         あぁ、そうだ、もう一つ忘れていた。
         王の仲間で、半端者だからお忘れかもしれませぬが、
         まだここに集まっていない人がおいででしょう?

キャリバン、ステファノーとトリンキュローがここでけばけばしい盗んだ衣装を着て登場。

セバスチャン:はっはっは!
       なんだお前らのその格好は!
       なぁアントニオ、あの生き物は一体なんだ?
 アントニオ:あれはどうみても腐った魚だ!
       珍しいな!見たこともない魚だ!腐ってるのに生きている!
       これは間違いなく街で高く売れるぞ!
 キャリバン:あぁ、やっぱりあなたがご主人様ですプロスペロー様。
       もう、悪いことはしないで言うことをちゃんと聞きますから、
       どうか、お命だけは…。
プロスペロー:わかったなら、さっさと薪を運べ!
       お前の仲間達も連れてな!

全てが終わったプロスペロー。
彼は、お別れしたアリエルに話しかけます。

  「アリエル、本当はそこにいるのだろう?
   もう私にはお前の姿が見えないが、解っている。
   お前のことだから、そこにいるのだろう?
   最後に命令ではなく、大切な友人として、頼みを聞いておくれ。
   私たちがミラノへ帰る時に、嵐に遭わず、平穏な海を航海できるようにしてくれ。
   よろしく頼むぞ…。私のかわいいアリエル…。元気でな…。」

そう言って皆を広間へと案内した後、独りで椅子に座ってプロスペローは独白する。

「魔法も捨て、アリエルとも別れ、復讐も終わり、憎いものは全て許した。
 もう、私には微々たる力しか残されていない。
 そんな老いぼれの私をここに残そうと、ミラノへ返そうと、それは皆次第だ。
 もう抵抗など出来る余力はない。
 しかし、私はもういつでも死ぬことが出来る。
 何も悔いることは残っていません。
 最期になって、人間というのは祈ることによって、希望を持つことによって、
 人を許す事が出来るようになる、と言うことを学びました。
 今、私はアリエルのように自由です。
 憎み、恨みといった呪いから解かれて、自由を手に入れました。
 そう、全ては、死という目標に向かっていた…。
 こうして、私は安らかに、死ぬことが、できる… 」

劇の最期は、彼が死んだとも、ただ長かった復讐劇を振り返っただけともとれる、
意味深な、深いため息で締めくくられます。
しかし、どちらにしても、プロスペローの中にはもう平和と安堵があるのです。
ミランダとファーディナンドに未来を託し、安らかな気持ちになったのです。

この頃、シェイクスピアは、段々と歳をとってきて「新しい劇」に自分の芸術感が合わず、
現代の芸術のあり方に違和感と疑問を感じ始めていました。
そう、プロスペローの「魔法の杖を折って、書物は全て海に沈めよう」というのは、
シェイクスピア自身の、「ペンを置き、本を書かないようにしよう」という引退宣言でも
あるのです。
この「テンペスト」を境に、彼はもう自分だけのオリジナル作品を書かなくなります。
そんな、芸術家としての儚い誇りが、この物語を生んだのでしょう。

僕は、日頃からピアノの訓練をしています。
幼い頃から沢山してきて、中学の頃は12時間練習していました。
1曲に1年もの時間を費やすことだって多々あったし、命を削って1曲に集中してました。
でも、いざ迎える本番なんて、何分かで終わってしまう。
あっという間です。
何を考えていいやら、あまりにあっけなく終わってしまうから、寂しささえ感じられます。
でも、それくらい本気で準備するから、一回勝負の本番を楽しむ事が出来る。
感じることが出来る。
思い出として残すことが出来る。
いざ「一度きり」という舞台に立たされると、相当な準備がない限り、大体失敗に終わる。
人間なんて、そういうものです。
僕は、僕の練習が「コンサート」のためにあるように、
生きていること自体が、「死ぬとき」のためにあるような気がします。
「どうして頑張って生きなきゃいけないのか?」
その答えが、このテンペストにあったのではないでしょうか。
「やっと死ねる」
プロスペローが言い放った言葉に、深い感動を覚えました。

どれだけ苦しいことでも、もう生きていたくないと思うほど苦しい事でも、
それは、「よく死ぬ」ために乗り切らなくてはいけないのです。
そうでないと、いざ死んでしまうと言うときに、何を考えて良いかも解らないほど、
パニックになってしまうでしょう。
最期の最期、僕たちには人生の成果を見せる「死」という舞台があるのです。
その時のために、今から妥協なく、よく生きてゆきたいなと思います。

今思えば、プロスペローが使ったどの魔法より、最後の「心からの言葉」の効力が強かった
ように思えます。

遙かなる復讐劇の答え、それは、、、

    「許す」  ということと  「よく死ぬ」

                      ということでした。

プロスペローが、安らかに最期の息を引き取る時、そこには「幸せ」が存在します。
きっと、自由になったはずのアリエルが彼の魂を天国へと運んでいったに違いありません。
二人仲良く、今度は友人として、生きてゆくことでしょう。

僕たちの心の中に、いつも二人は存在しています。
あなたが本当に運命の重さに耐えきれなくなってしまったとき、
自分の中にいる2人に話しかけてみてください。
きっと、「許す」という美しさと、「死」という目標を掲げてくれるでしょう。

「偉い人間にならなくてもいい、善い人間になりなさい。」

僕の中のプロスペローは、いつもこう僕に語りかけてくれます…

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43