ショパンのソナタ第3番
「ある教会にね、とてもステキな振り子時計があったの。
上の時計の部分が「天使」になっていて、その天使が腕を下の方に伸ばしているの。
その、伸ばしている腕の部分が、振り子として右に左に動いているのだけど、
私は、その、振り子の腕が持っているモノに、すごく驚いたわ。」
これは、僕がショパンの故郷ポーランドに勉強に行ったときに、先生がおっしゃった事です。
その時のレッスンでは、ショパンのピアノソナタ3番を持っていきました。
僕は、この曲が大好きで、大好きで、大好きなのに、、、
中々上手く弾けませんでした。
思うようにならない。。。
ただじっと振り返ってくれるのを待っているしかない「片思い」のように、いつも苦しい思いをしてました。
でも、この言葉で、僕の中の全てが解決し、そして、ショパンのソナタ3番も、振り向いてくれました。
僕が、救われた言葉です。
高校2年のある日、この曲を練習していた僕は、悩み苦しんでいた。
迫り来る「コンクール」という名の期限と、周りの期待に応えなきゃというプレッシャー。
神様にも、「この曲をうまく弾かせてください」と何度祈った事かわからない。
でも、それでも、この曲を弾きこなす事は出来なかった。
特に3楽章。ゆっくりとしたテンポの曲。
右手は自由に歌えるように、ノクターンのような美しいメロディが流れている。
でも、左は、その美しさを殺してしまうかのように正確なリズムを刻む。
この、両極端な左右の性格を目の前に、僕はただただパニックに陥るだけだった。
あんまり上手く弾けないものだから、家族や友人にも当たってしまう始末。
段々、自分が孤独になっていくのがわかった。
それでも、きっとこの曲が振り向いてくれるだろうと期待して、頑張った。
でも、いつまでも振り向いてもらえない。
「努力しても、誠意をもって望んでも、しょうがない事があるんだ」
そう痛感した。そして、諦めようと思った。
諦めるなんて、絶対間違ってるんだろうけど、悔しいけど、でも、このままでは辛すぎるから。。
頑張ることをやめた僕は、すごい脱力感に襲われた。
こんなに力が入っていたのか、とすごく驚いた。
その虚しさが妙に心地よくて、まるで麻薬のようだった。
「あぁ、こうして人は嫌な事を忘れていけるんだろうな。」
そう思った。
結局、コンクールには間に合わず、結果は1位だったのだが、ソナタの批評はイマイチだった。
1位だからいいじゃん。
皆からはそう言われたけれど、僕の中で、その言葉は一番痛い言葉だった。
「良いわけないだろ!」
そうどなってしまった事もあった。
何だか、この曲に「呪われてしまった」のではないかとさえ思った。
それからしばらく、僕はもう21歳になっていた。
そんな「呪われた」記憶なんかどこかへ忘れてしまっていて、
この曲を安易に選んで、ポーランドへ持っていってしまった。
しばらく感じていなかった、あの「呪い」が、僕の体のなかにとぐろを巻いているのを再び感じた。
まただ。また弾けない。
そう思った。
・・・と、その時。
先生が僕の演奏を止めた。
そして、ゆっくりとにこやかに喋り出した。
「ある教会にね、とてもステキな振り子時計があったの。
上の時計の部分が「天使」になっていて、その天使が腕を下の方に伸ばしているの。
その、伸ばしている腕の部分が、振り子として右に左に動いているのだけど、
私は、その、振り子の腕が持っているモノに、すごく驚いたわ。」
そこまで言ってから、僕が不思議な顔をしているのに気付いたのか、先生は先を急いで話した。
「天使の腕が持っていたのはね、『不気味な鎌』だったのよ。
それはそれは奇妙だったわ。穏やかな微笑をみせている天使が、鎌を右に左に振っている。
とても怖い描写ね。でも、それは、私たち人間の「時間の意味」そのものなのよ。
1秒1秒、確実に私たちは「死」に向かって歩んでいる。でも、生きるってとても幸せなこと。
天使と鎌のアンビバレンツな美しさは、私たちが生きている事自体の美しさと同じなのよ。
ね、シンヤ、どこかで訊いたことのある言葉でしょ?
まったく違う二つのものが合わさって、そして一つの芸術になる。
そんな曲をアナタは少なくとも1曲知っているハズだわ。」
・・・そうだ。
僕が弾けなかったこの曲。
ショパンのソナタ第3番の3楽章。
何故弾けなかったかというと、
あまりに美し過ぎる右手のメロディに、あまりに冷酷なリズムを刻む左手がいるからだ。
その二つを組み合わせるだけのアイディアや器が僕にはなかった。
でも、その二つの両極端な性格は、常に一体として存在している。
そうだった。
僕が生きていること、それ自体なんだ。
ショパンが、もう「死期」を悟って、全てが終わろうとしている人生の晩年に、
生きる事の素晴らしさ、そして、死ぬ事の儚さ、その二つを組み合わせたんだ。
答えは、「時間」だ。
ファウストのように、永遠の若さと命を手に入れる事に人は憧れる。
でも、それは、憧れているからこそ、美しい。
人が優しくしていられるのも、終わりがあるからだと思う。
僕が愛せるのも、僕が感謝できるのも、僕がピアノを弾けるのも、
全て、儚い終わりがあるってどこかで感じているからだ。
いやだなぁ、愛する人と、永遠のお別れしなくてはならない時が来るんだ。
ピアノが弾けなくなるときが来るんだ。
僕はその時、「ありがとう」って素直に言えるかな。
ポーランドの田舎で、ただ独り、そんな事を考えていたら、涙が自然と溢れてきた。
受け入れよう。
涙の後は、ただそう思った。
今生きている、素晴らしいこの世界から、僕はいつか離脱しなくてはいけない。
僕の中に浮かんで来る、色々な人の笑顔も、いつかは見えなくなる。
でも、それを受け入れよう。
その時がくるまで、そのことに逆らわずに、一生懸命生きよう。
そして、あの曲を弾いてみた。
信じられないくらい、「無欲」だった。
右手のメロディが、美しいのは、左手の儚い刻みがあるから。
そう思って、美しくしてやろう、という欲を取り払った。
そう。
「呪い」とは、「欲」だ。
「こうしてやろう」「ああしてやろう」「ここを美しく聞かせよう」「ここをドラマティックに」
そんな作為的なことが、僕の体の中の自由な表現を束縛していたのだ。
僕は、今でも、孤独な寂しい気分に陥ると、この曲を独り静かに弾いています。
そして、あの時の気持ちを思い出す。
そう、全ては、儚く終わりを向える。
でも、それを受け入れた上で、どれだけ、苦しみ、悲しみ、痛み、怒り、から愛を育てられるか。
そこが大切なんだ。
「もう、何も要らない」
そう思えるほど無欲な状態になったとき、自分という人間は驚くほど進歩している。
でも、「何も要らない」というのは、「動かない、歩かない」というのとは違う。
自分が、ステキな人間になりたい、と強く思ったうえで、もう、「生きる」という以上の幸せは要らない、
そう思えることを言うんだと思う。
これだけ思っているのに振り向いてくれない。
そんな苦しい思いをしている時、本当に振り向いていないのは自分自身です。
自分が自分を背いている。
足元に転がっている幸せにすら気付かない。
「欲」とは、全てをぼかしてしまう、恐ろしい「呪い」です。
本当に苦しい時、本当に辛いとき、自分に正直か、もう一度振り返ってみてくださいね。